すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 使徒行伝2章37~42節
説教題 「悔い改めと罪の許し」
聖霊降臨の出来事により、イエスの弟子たちの周りに集まってきた人々に、使徒たちの(イエスの教会の)最初の宣教がなされました。それは、聴衆が実際見聞きしていることが、神により起こされている出来事であり、彼らを悔い改めによる罪の許しの恵みへと招くものであることを訴えたものでありました。神から遣わされた義なる方、終わりの時の救い主を拒否し、十字架につけた罪をとがめられた聴衆は、強く胸を刺され、罪を悔い、救いの道を求めました。そして多くの者が、使徒たちの勧めを受け入れ、イエスを救い主として受け入れ、その名による罪の洗い(許し)のバプテスマを受けたのです。
「わたしたちの救い主なる神の慈悲と博愛とが現れた時、わたしたちの行った義の業によってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、わたしたちの上に豊かに注がれたのである。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠の命を望むことによって、御国を継ぐ者となるためである」。
(テトスへの手紙3章4~6節)
聖霊の注ぎは、イエスの名による罪の許しの確証であり、神のみ前に義なる者として再生された者(神により新しく生まれさせられた者)であることを意味します。そして、この再生され、義とされた者たちは、救いの恵みの中を生き、永遠の命を約束され、神の国を相続することへ向かって神に導かれ、守られている者たちであります。
イエスの十字架の死と、死人の中からの復活、昇天、聖霊の注ぎは、罪と死に支配されていた人間の存在を造り変えた大いなる神の救いの出来事であり、信じるすべての人に差別なく喜びと平安をもたらす終わりの救いの出来事であります。その喜びの使信は、全地の人々を包むものであり、速やかに全地の人々に届けられるべき良き知らせ(福音)であります。このため、イエスの教会は、宣教活動を最優先することを命じられています。イエスの使徒たち(イエスの教会)によってなされた最初の宣教以来、世々の教会は、イエスの御命令に従って、全地の人々のもとへと宣教者を派遣し続けています。
イエスの再臨の時まで、忍耐強く、たゆむことなく、喜びの感謝の奉仕として宣教活動が行われることを願い祈ります。
聖 書 使徒行伝2章43~47節
説教題 「新しい秩序のもとでの生活」
聖霊降臨の出来事のもとで、イエス・キリストの共同体はイエスを拒否し、十字架につけた人々の中から、悔い改めて罪の許しのバプテスマを受ける多くの人々を獲得しました。かれらは、イエスの弟子たちと共に一つの共同体を形成し、新しい神の民が生まれたのであります。その新しい共同体の生活の基盤は、律法ではなく、使徒たちを通して与えられた主イエスの教えを守ることであり、イエスのみ名による祈りであり、神の恵みに対する感謝と讃美、喜びにおける愛の交わりであります。
霊的な賜物も物質的・財的な賜物も、共同体に共有され、互いに仕え合い、分かち合う新しい秩序が建てられたのです。
その秩序は、救いの恵みへの感謝と喜びから自然発生的、自発的に生まれたものでありました。ひとりひとりが、自らに与えられた聖霊の賜物により、共同体の仲間に仕え、また、財産のある者は、その財を共同体にささげ、必要とする人たちに分け与えました。また、彼らは食事を共にし、その中で、主イエスの救いの恵みを記念する聖晩餐を守り、常に新しく主イエスの救いの恵みを受け取り、完成の祝いの先取りである祝いを聖晩餐において祝ったのです。
イエスの共同体の喜びに満ちた神讃美の生活は、周りの人々から好感を持たれ、神により、救われる者が日々増し加えられていきました。イエスにより与えられた宣教の命令も、この共同体の支えのもとに、使徒たちを通して継続されていきました。
最初期の教会(イエスの共同体)において、世々の教会の模範となる共同体の在りようが実現されているのは、大いなる恵みであります。神の救いの讃美、感謝、喜び、すべての人のための祈り(み国の完成を求める祈り)、主イエスの平和の教え、互いに仕え合う愛の交わり、救いの完成を待望する聖晩餐の交わり、現在の教会もまた、そのすべてを共有しつつ、イエスにある新しい民としての歩みを進めています。
聖 書 使徒行伝3章1~10節
説教題 「信じる者の中に働く神の力」
ユダヤの人々の祈りの習慣に従って、使徒ペテロとヨハネが祈りのために神殿に上ろうとした時、「美しの門」(うつくしのもん)と呼ばれている門のところに、生まれつき足のきかない男の人が抱えられてきました。その人は、エルサレム神殿に上ってくる人々から施しを受けるため、毎日その門の所に抱えられてきていたのです。彼は、ペテロとヨハネが神殿に入ろうとしているのを見て、二人に施しを求めました。二人はその人をじっと見て、彼に言葉をかけました。二人がその人をじっと見つめたのは、彼と信頼関係をきづこうとするものであります。使徒たちは神の示しによって、その男性に彼の求めをはるかに超えた神からの贈り物を渡そうとしていました。その贈り物を彼は受け取る準備が出来ているかどうかを知ろうと彼をじっと見つめたのであります。そして、足のきかない人が使徒たちに心を開き、彼らが与えようとしている賜物を受ける準備、また、彼らの言葉に従う準備が出来ていることを確認しました。そこで、ペテロは彼の手を取って、「金銀はわたしたちには無い。しかし、わたしたちにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。と命じました。その人は、ペテロの言葉に従い、ペテロに補助してもらいながら足に力を入れ立とうとしました。するとどうでしょう。彼の足とくるぶしとはたちどころに強くなって躍り上がって立つことが出来たのです。彼はうれしさのあまり、そのまま歩いたり踊ったりしながら神を讃美しつつ使徒たちと共に神殿に入っていきました。神殿に詣でていた民衆は、その彼の様子を見て驚き、彼に注目しました。そして、その人が、神殿の門の所で施しをこうていた人であるに気が付いたのです。「いったい、この人に何が起こったのだろう」
民衆の関心は、癒された人が付きまとっていた使徒たちへとむけられていきました。「あの使徒たちが、その信心で彼の足を癒し、歩けるようにしたのか」。
使徒たちを通しての、イエスのみ名による足のきかない人の癒しは、多くの人がイエスのみ名こそ癒しの力の源であることを知る機会となっていったのです。
使徒たちの言動において、わたしたちに示されていることがあります。それは、イエスの教会が、信じて受ける人に届けるべく、イエスの御名による救いの恵み、霊の賜物を預けられているということであります。使えば尽きてしまう金銀以上のもの、信じて受ける人を永遠に担う救い主、イエス・キリストの尊いみ名を知ることへと人々を招くこと。教会のあずかるイエスのみ名の証し、その使命は、光栄ある務めであり、絶大な神の恵みの賜物を預かりであります。誇りをもってそのことを覚えていきましょう。ひとりでも多くの人に、主イエス・キリストの、救い主としての尊い御名を届けることが出来ることを願い、求めつつ。
聖 書 使徒行伝4章1~12節
説教題 「人を恐れず、神を畏れる」
エルサレム神殿の、美しの門と呼ばれる門の所に毎日抱えられてきて、施しを受けていた生まれながら足のきかない人が、イエスの名によって癒され(男性40代)、その人が使徒ペテロとヨハネにまとわりつき、神殿内を、神を讃美しながら躍り上がって歩き回っていると、参拝者たちが驚き集まってきました。人々は、つい先ほどまで、足のきかなかった人がどうして今、躍り上がって歩いているのか。何が起こったか知ろうとしていたのです。人々の眼差しは、癒しを行った使徒たちの方を向いていました。「あの人たちは、奇跡を起こす力を持っているのか」。ペテロは、人々に、人々が指導者たちに扇動されて十字架につけたナザレのイエス・キリストを、神から、彼らに救い主として遣わされたお方であることを証言する大きな機会を備えられたのです。
ペテロはまず、足のきかない人の癒しは、人々によって十字架につけらたけれども、神によって死人の中からよみがえらされたイエスのみ名を信じた結果であること。イエスの名が信じる人の中に働き、聞かない足に力を与え歩けるようにしたことを証ししました。その事実を前に、イエスが、神によって救い主としての栄光を与えられ、人々のために命の君として遣わされた方であることを示したのです。
人々は、彼らが神の御心に背く罪の業をイエスに対して行ったのだということを、認めるよう導かれています。しかし、それは、裁きを語るためではなく、彼らが知らずして犯した罪の業を悔い改め、イエスを通して救いへと入れられ、諸民族と共に、神の祝福を受けるためであります。神は、イスラエルの先祖に祝福の契約を与えられ、それをイエスキ・リストの十字架と復活において成就されましたが、その祝福はまた、異邦人にも及ぶものとして与えられていました。このゆえに、イエスは、使徒たちに、「地の果てまで私の証人となる」と言われたのであります。主の御名はほむべきかな。人々がイエスに対して行った罪の業を指摘しました。