すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書24章27~31節
説教題 「復活のイエスと食卓に」
エマオの二人の弟子たちに同伴し、彼らに聖書全体から救い主の道を解き明かされた復活の主イエスは、二人の住んでいるエマオ村から、なお、先に進んでいこうとされました。イエスの話をもっと聞きたいと願った二人の弟子たちは、そのイエスを引き留め、彼らと共に宿泊してくださるようにと懇願しています。彼らの目は、まだふさがれていて、同伴している方を復活の主イエスとは認識できていません。イエスの顕現は、二人にご自分の復活を確認させるためであります。イエスは彼らの願いに応じて下さり、彼らの目を開かせることへと進んでくださいます。
さて、弟子たちの目がふさがれていて、復活のイエスを認識できなかった理由として、イエスご自身が語っておられます。
彼らは、彼らに約束されていた神のみ言葉、すなわち、予言者たちを通して語られていた予言のみ言葉の全体からではなく、彼ら自身の救い主への期待からのみ、救い主の御業を待望していたためであります。その待望においては、イエスが十字架つけられて死に、墓に葬られた時点で、イエスに対する彼らの期待はすべて失望に終わり、もはや、イスラエルから希望は失われたのであります。
しかし、同伴された復活の主イエスによる聖書全体からの救い主についての解き明かしは、イエスの墓の上になお、神の御業が続いており、イエスに対しても、イエスを通しての救いの希望もいまだ絶えてはいないことへと弟子たちの心を上げさせます。
二人の弟子たちの心は内に燃えており、彼らはなお、イエの話に耳を傾けようとイエスと共に夕べの食卓に着きました。その時、復活の主イエスは、食卓の主として祈りをささげ、弟子たちにパンを割いてお分かちになりました。すると、弟子たちの見えなかった目が開き、彼らは、共に食卓についておられる方が、彼らの主イエスであることを認識したのであります。そして、驚きと喜びが押し寄せてきたときイエスのお姿は彼らの前から消えました。しかし、彼らは、今や、信じない者、疑うものではなく、信じる者へと変えられたのです。
二人の弟子たちは、復活の主イエスの顕れを受けた者として、その証しをするため、報告のため、失望落胆の中にいるエルサレムの弟子たちのもと、心を躍らせながら夜の道を急いで引き返すのです。
神の永遠の御計画に基づいて救い主を知り、信じ、受け入れるすべての人に、神の救いの恵みが満ち、神の御名がとこしえにあがめられますように。
ルカによる福音書12章33~42節
説教題 「復活の主イエス弟子たちの真中に」
復活の主イエスの顕現を受けたエマオの弟子たちは、エルサレムの弟子たちにその証言をしようと、夜の道をエルサレムに引き返して行ったのですが、エルサレムでも、ペテロに現れた復活のイエスのことが話題になっていました。二人もすぐに、彼らに現れた復活のイエスについて証言したのです。
しかし、二人の証言は、すんなり受け入れられませんでした。(マルコ福音書16:12~13)「彼らは信じなかった」と、マルコは記しています。ルカ24:38以下のイエスの顕現と弟子たちに対する非難には、復活のイエスに出会った証人たちの証言を、聞いても信じない弟子たちの不信仰が背景にあります。
イエスは、その不信仰な弟子たちの目を開き、復活者であるご自身が見えるようにするため、弟子たちの真中にあらわれ、お立ちになったのです。その時、彼らは、イエスの「やすかれ」の挨拶を受けて驚き、幽霊を見ているのだと思っておじ惑ったことが記されています。弟子たちの不信仰は、相当なものであります。
弟子たちが、彼らの真中に立たれた復活のイエスを、彼らが従っていたイエスと同一のお方であることを認識できるようになるまで、イエスは、忍耐強く彼らのためにできるだけの奉仕をされます。
十字架につけられた手と足の釘跡を見せ、魚のひと切れをお食べになり、依然彼らに予告された苦難の死と三日目の甦りについて思い起こさせ、ご自身の復活が全聖書(モーセの律法と予言者と詩篇)の成就であることをも示されます。この全聖書の成就により、復活者イエスは、天と地にある諸々の権威、権力の上にあげられ、支配するお方となるのです。
救い主としてのイエスの王権は、イスラエルを超えて、全地の人々の上に広がり、それを包む支配となるのであります。
イエスの平和の支配が、世界に深く浸透しますように。
聖 書 ルカによる福音書24章44~49節
説教題 「イエスの御名による罪の許しを、諸々の民に」
弟子たちの不信仰を叱責し、ご自身の復活の事実を弟子たちに確認させられたイエスは、彼らを選んで召し、御後に従わせられたその目的を、お示しになりました。それは、イエスの苦難と復活、昇天、神の右の座に就かれるということが実現することによってこそ、始めることが出来る使命でありました。そのため、イエスの復活による昇天の時まで、弟子たちには隠されています。イエスが弟子たちを離れ、神の右にあげられようとしている今、彼らの使命が明らかにされ、彼らがイエスと共にいて、見聞きしたすべてことについて、彼らは聖書全体から(律法、予言者、詩篇)の確証を与えられつつ、イエスとその出来事への証言者となっていくのです。
すなわち、ユダヤの人々の間で、権威ある教えと力ある御業を為されたナザレのイエス。十字架につけられ、死んで墓に葬られ、死人の中から甦られたイエスにおいて、全人類に対する神の祝福(救い)の約束が実現された事の証言であります。
それを、別の言い方をすれば、全人類の上にあった、人間の罪に対する神の裁きが、イエスの十字架の死においてあがなわれ、罪の赦しによる祝福の義の命が、人間に与えられる恵みが現れたということであります。
死の陰にあった人間の命は、あがない主(救い主)イエスにおいて、命の光の下へと移され、永遠の命の喜びが信じるすべての人のものになるということであります。罪の裁きへの恐れは取り除かれ、人は希望の中を生きる者とされたのです。
イエスの弟子たちは、イエスにある神のこの救いを、全地の諸々の民へ宣べ伝え、神との平和が確立したことを知らせるのです。そして、神との平和を通して、隣人との平和にもあずかるのです。神の愛と平和が信じて救いを受けるひとりひとりの中に住み、隣人との関係も神の愛と平和を基とするものとなります。この神の愛と平和こそが、まことのゆるぎない平和を人と人の間にもたらし、人と人が、神にある兄弟姉妹として向き合い、互いに仕え合い、お互いに他の人の益のため自分を与え合い、命の喜びを共にするようになるのです。
弟子たちに与えられた諸々の民への、イエスの名による罪の赦しの宣教は、人類の間にまことの平和が浸透していく道を作っていくものであると言えます。神の平和が、広く、すべての民の中に浸透しますように。
栄光とこしえに、父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 使徒行伝1章1~11節
説教題 「復活のイエスの昇天」
使徒行伝は、復活の主イエスの昇天による、新たな時の神の救いの御業を告げ知らせます。
復活のイエスは、その弟子たち一人ひとりの内に、ご自身の復活の事実を確かのものとして知らしめた後、彼らにその使命を与え、その遂行を命じつつ、彼らを祝福しながら天に昇って行かれました。彼らの使命遂行は、天に昇られたイエスと父なる神のもとから、聖霊が下されるときに開始されます。なぜなら、聖霊の導きがないならば、彼らはイエスにおける神の救いの出来事を正しく認識し、宣べ伝えることはできないからであります。
彼らには、イエスの十字架によるすべての人間の罪のあがないこそが、救いの恵みであり、この救いの恵みにより、一人一人の罪ある人間に、罪の許しの、義の永遠の命を与えるものであることが、いまだ理解されていません。
この彼らに、聖霊を通して、イエスの成し遂げられた地上のイエスのお働きのすべてについての、真実の理解が与えられる時まで、彼らは、神から来られて神の支配する御国について教え、また、力ある御業をなし、苦難の死を遂げられ、死人の中かから復活され、神の右に昇られたイエスを、イスラエルの、また、地の果てまでのすべての人の救い主であることを証言する事力はないのであります。
そのため聖霊が下るまで、彼らは祈りの時を過ごし、彼らに与えられた使命遂行の時に備えていかなければなりません。地上においてイエスにより示された神の国は、イエスと御父の霊である聖霊の注ぎを受ける弟子たち、イエスの群れである共同体(イエスの教会)を通して継続され、その完成に向かって進んで行くのです。