すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書1章24~38節
説教題 「神には何でもできないことはない」
救い主の先駆者となる子供の誕生が、老祭司ザカリヤに告げ知らされた後、み使いのみ告げの通り、老年の妻エリサベツが身ごもり、5か月が経ったころの事。エリサベツの親族で、ガリラヤのナザレの村に住むマリヤという娘の所に、み使いの長ガブリエルが訪れました。マリヤは、ダビデ家の出であるヨセフと婚約していましたが、まだ一緒には住んでいない処女であります。み使いガブリエルは、そのマリヤに理解できない恐るべき、驚くべき言葉をかけたのです。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいている。見よ、あなたは身ごもって男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、唱えられるでしょう」。
処女マリヤは、み使いのお告げが理解できず、そのお告げに抵抗すると、「聖霊があなたに臨み、いと高い者の力があなたをおおうでしょう。それゆえ、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう」と答え、マリヤの身ごもりは、神の力である聖霊によるものだと示したのです。そして、不妊の親族、エリサベツの身ごもりについて知らせ、「神には何でもできないことはない」と、マリヤの受け入れを求めました。マリヤは、それを聞くと直ちに神の御心への信仰の服従を言い表しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」。
マリヤのみ告げに対する服従には、神に奉仕する神の礼拝者のふさわしい在り方が見えます。神が求められるとき、直ちに、神の御心に仕え、神の御業がなる事を願うのが信仰者のふさわしい在りようなのであります。
神の御心がなり、神の栄光があらわれる所に、僕である人間の幸いがあります。神の御心が全地になり、全地に神の栄光が現れる時、全地の人々は、神の備えられる幸いの中に、平和の中に住む者となるでしょう。
神の選びと召しによる敬虔なる神の礼拝者は、神の御心の奉仕者として、神に求められる時、直ちに身を差し出し、御心にお仕えする備えをしていることが、ふさわしい事なのであります。マリヤが引き受ける神奉仕には、その奉仕のゆえに、身にふりかかる危機をも引き受ける事があります。すべてを神に委ね、その御心がなるために、苦難をも喜んで耐えるものとなります。マリヤには確かに危機が訪れたのであり、その危機は、しかし、神ご自身が取り除かれ、処女マリヤを通して、神の御子・世の救い主・イエスのお生まれになったのです。マリヤの夫となったヨセフは、神により、神の民の永遠の王座を約束されていたダビデ家の子孫であります。その神の約束は、十字架の死から復活し、天に昇り、永遠の王位に就いたイエスにおいて成就しました。神は、ご自身の救いの御業のために、御業に奉仕する者たちを必要とし、恵みを与え、召してお用いになるのです。神の礼拝者として、神の御心にお仕えする備えを常にしていきましょう。
聖 書 ルカによる福音書1章39~56節
説教題 「神のみ言葉の成就」
神は、救い主を世にお遣わしになるにあたり、救い主の先駆者となる予言者(バプテスマのヨハネ)の母(エリサベツ)と、救い主の母(マリヤ)が、互いにしるしとなるよう計らわれました。主の使いのお告げ通り、老年のエリサベツの胎に救い主の先駆者である子が宿り、神の約束が確かな現実となった時、救い主の母となる娘(処女)にも神の使いの訪れがあり、救い主受胎の約束が告げられました。神の救いの御業に奉仕するために選ばれたこの二人の女性は、親族同士であり、訪問によって、確かめ合うのにためらいがいりませんでした。
神の使いのお告げ通り、マリヤの胎に子が宿ったことが確かになった頃、マリヤは急いでエリサベツのもとに向かいました。み使いのみ言葉を確認し、神の御業を讃美するためであります。エリサベツがマリヤの訪問を受けた時、エリサベツの胎の子が、喜び踊る動きをしました。エリサベツは、その動きにより、自らの胎の子が奉仕する主なる方が、マリヤの胎にいることを知らされたのです。そして、すぐに、マリヤとその胎にいる子を祝福し、神の恵みの御業が成就しつつあることへの感謝と、自らがその御業に仕えることの光栄を喜びました。
マリヤは、年長のエリサベツが、彼女とその子の前に身を低くし、祝福したことをうけて、神の恵みの御業が、その御告げの通りに成就していることを確認させられました。そして、マリヤの口からは神讃美がほとばしり出たのです。自らのような卑しい者、また、低くされている者を顧みて、恵みを与えて下さる神への賛美、感謝。そして、父祖アブラハム以来の約束である救い主を与えて、イスラエルの民を救われる神の真実への讃美、感謝であります。
イスラエルの民が、長きにわたり待ち望んでいた、救い主による終わりの時の神の救いは、卑しめられている人、低きにいる貧しい人、しかし、信仰においては、神に真実であり、従うことを知っている人たちのところで始まりました。
神は、ご自分の御業のために、常に信仰を求めておられます。
主が求められる時、信仰をもって応え、主の御業のために身をささげる人は幸いです。そのような信仰者の信仰を通して、神は、ご自身の救いの恵みの御業を始め、広げていかれます。わたしたちの世界は、神の救いの恵みを待ち望んでいる世界です。全地の人々へと、神の救いの恵みが、さらに豊かに届いていくことが、求められています。
神の救いの御心が、全地になる日を願い求めつつ、主の御業に仕える喜びと光栄にあずかっていきましょう。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。