すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ヨハネによる福音書1章1~5節
説教題 「光は闇の中に輝いている」
「はじめに言があった」と福音を語り始めるヨハネの福音書においては、イエスがもともとおいでになった場所を指し示し、イエスにおける神の現れとその真実性が証しされます。「はじめにあった」と、言われている「言」は、14節では、イエスを指して、「そして言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と言われています。ナザレのイエスの中にご人格を取られたその言は、万物の創造以前、永遠なるお方として永遠の神と共におられた言であり、神と等しい本質を持たれているのです。初めから神と共にあったこの言において、神は万物を創造されました。
3節「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。すべての造られたものの主としてこの「言」が存在します。すべての造られたものは、この言なる神、造り主に属するものであり、この主からその命を受けています。すべての造られたものに対して主としての権能を持つお方である、神なる言が、イエスのご人格において私たちの中においでになっておられ、わたしたちに神についての真実を現わして下さるのです。そうして下さるのは、私たちのもともとの居場所である神との交わりに入れてくださり、命の光の中を生きるようにしてくださるためであります。
わたしたちの現実は、わたしたちの造り主であり、命の源である神から離れ、神に敵対しています。神を無視し、神に背を向けています。思い思いの方向に向かって生きています。このような状況を、ヨハネによる福音書では、「闇 」または「罪」と呼んでいます。
その罪の闇の支配のもとで、わたしたちの命は、死と滅びの陰に覆われているのです。イエスは、そのような私たちを闇から光の中へ、滅びの死から永遠の命へと移すためにおいで下さったのです。
5節「光は闇の中に輝いている」。
私たちの義の永遠の命の光が、十字架の死から復活したイエスの中に輝いています。イエスを信じる者は、この永遠の命の光の中に移され、永遠の神との交わりの中を生かされ、生きる者となります。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。アーメン。
聖 書 ヨハネによる福音書1章6~8節
説教題 「証のつとめ」
ヨハネによる福音書1章には、神によって起こされる二つの出来事が総括的に語られています。まず一つは、神と共に永遠からあり、すべてのものの造り主である神の言が、人間の肉体を取り、まことの人として人間の中に来て下さることです。そして、そのお方の中にすべての人の救いの命が輝いていること、恵みが満ちていること。このお方の恵みを通して、すべての人が真実に神を知り、神の救いを受けることができるようになることであります。 二つめは、この、神のもとから来て下さる救い主について、そのお方を指さして、「見よ、この方こそ世の救い主、世の罪を取り除く神の子羊」と、証しをする務めを持つ人々の神による派遣であります。今日与えられている聖書の言葉には、この二つ目の神による出来事の先頭に立つヨハネについて語られています。ここで名指しされているヨハネとは、バプテスマのヨハネの事でありますが、敢えてその肩書をつけないで、ヨハネの使命を強調してヨハネが紹介されています。この福音書が書かれた頃は、バプテスマのヨハネを救い主ではないかと考え、ヨハネに期待する人々があったため、そうではないことがはっきりするように配慮しているのです。この章の後半部分では、さらにこのことがはっきりするように、ヨハネによるイエスについての紹介(証言)が語られています。ヨハネは、自分はキリストではないと告白し、自分はそのお方(救い主)に奉仕をする者にすぎないと明言します。
ヨハネはまた、その弟子たちにイエスを救い主として証言し、弟子たちをイエスに従う者としました。イエスに従い、イエスの教会の核となった人々は、このヨハネの弟子たちであります。アンデレ、シモン・ペテロ、ピリポ、ナタナエルと、その師ヨハネからイエスについての証言を聞いた弟子たちが、イエスのもとに行き、イエスとの交わりに入れられ、イエスと共に、イエスによってはじめられた神の救いの時に奉仕する人々となったのです。
神による約束の成就としての救い主イエスの到来、そして、その救い主を救い主として知らされて知った人々による救い主イエスについての証言、この二つの神による出来事を通して、すべての人に神の救いの恵みが渡されていきます。イエスの教会は、バプテスマのヨハネとイエスを受け入れたその弟子たちの奉仕に続くものであります。
イエスは、神から来られた罪なきまことの人として、わたしたちすべての者の罪を、私たちに代わって負い、十字架の呪いの死により取り除いてくだいました。その救い主イエスとその恵みを証言する者たちとしてイエスの教会は世に派遣されています。神に派遣されている者たちとして、神からの使命を喜びと感謝をもって担うものになりましょう。
聖 書 ヨハネによる福音書1章9~13節
説教題 「神の子となる力」
光について証しをする者の神による派遣に続いて、その証しによって世に導き入れられ、世に到来している光が指し示されます。この光は、すべての人を照らす光であり、まことの光であります。すべての人は、この光から光を受け、自らの救いについて知るべきことを知ることが許されます。それゆえ、この、すべての人のために到来している光に、すべての人は関心を向け、この光を通して提供される恵みを受け入れることが求められています。
この光は、すべてのものの造り主である神のもとから到来した、すべてのものの造り主なる神であられます。造られたすべてのものは、このお方に所属しているのです。
私たちすべての人間も、この命の主である造り主から自立して生きている者ではなく、この造り主に所属し、造り主であるこの方から命を受け、生きており、生かされており、生きる者であります。
ところが、このことについて人間は、それを知らずにおり、あるいは認めようとせず、あるいは、造り主である神に敵対し、自立しているかのように思い、生きています。神に所属しているのではないかのように、自らの欲を神として生きる人間の在り方は、神のみ前で、罪人としての在り方であり、死の滅びの裁きがその上にあるのです。神はその死の滅びの裁きから人間を救うために、救いの命の光であるお方を、人間のもとに派遣され、人間をご自分のもとに回復させようとしておられます。しかし、神に敵対して歩いている人間は、この方を受け入れず、このお方の光を受けようとはしません。
しかし、このお方を受け入れ、信じた人々は、この方から救いの命の光を受け、神の子としての資格(力)を与えられ、神に守られ、神の国を相続する約束をいただいて、人生を生きるのです。彼らの神に対する不信仰、不従順、敵対が克服され、神のもとへと回復されたのは、いかなる人間的な根拠にもよらず、ただ神ご自身の御業によるものであります。
聖 書 ヨハネによる福音書1章14~18節
説教題 「恵みとまことに満ちる神の子」
クリスマスの礼拝を迎え、主イエスのご降誕の恵みを共に新たに御言葉から聴き、神を賛美いたしましょう。 私たちの周りでは、12月になりますと、光のイルミネーションがあふれ、美しく飾りつけられたクリスマスツリーが、多くの所に飾られています。人々は、その光とツリーに引き付けられ、見とれています。人々の心は、慰めを与えられていることでしょう。
光は、ヨハネによる福音書1章でわたしたちが聞いていますように、神と共に世の初めからおられ、万物を創造したみ言なる神の象徴であります。そして、この万物を創造された神なる言は、そのみ位から身を低くして、人間の肉と血を受け取られ、まことの人間になって私たちの間にお住みになりました。これが、わたしたちすべての人間の救い主であられるイエス・キリストであります。
神なる言が、そのようにご自身を低くして私たちのもとにおいでになられたのは、そのご人格を通して、わたしたちの造り主である神を、わたしたちに真の神として知らしめ、わたしたちを造り主である神のもとへと導き、共にあらしめるためであります。神と共にあることが、私たち人間の本来の生きる場所なのです。イエス・キリストが、世の光として象徴されているのは、神から離れ、造り主である神を知らず、神に背いている人間の罪の闇を闇として照らし、神を神として知り、神の光の中に人間を移しいれ、永遠の命の希望の中を生きる恵みを創造された救い主だからです。人間の神のもとへの回復は、神と人間の間を隔てている罪が裁かれ、取り除かれなければなりません。この人間の罪を贖い、人間に義をもたらし、永遠の命を約束する御業が、イエス・キリストの十字架の死と葬りであり、死人の中からの復活であります。イエス・キリストの十字架の死により、人間の罪は除去され、人間の命は、復活のキリストの義の命へと結び合わされ、神との交わりの中を生きる義の永遠の命へと造り変えられたのです。この義の永遠の命は、イエス・キリストを、自らの罪のあがない主として受け入れ、信じるすべての人にもれなく与えられます。神の愛は測りがたく、その恵みは尽きることなし。
神に栄光あれ!
聖 書 ヨハネによる福音書3章16~21節
背l教題 「永遠の命を得る」
今日のみ言葉、3章16節は、私たちが主イエス・キリストにある救いを伝えるためによく引用する御言葉であります。ここに、私たちに対する神の永遠の救いのご計画とその実現が要約されています。
私たちの造り主であられる神は、私たちをご自身と結び合わせ、罪と死の力から永遠の命の中へと移して下さるために、御独り子を私たちにお与えになったと語られています。
神の御子が与えられることによって、私たちが滅びから救われ、永遠の命を得るということはどういう意味でしょうか。
「ひとり子を私たち(世)に賜った」ということに、その深い意味が隠されています。それは、私たちの「罪のあがないとなるように」神のひとり子が与えられたということであります。もっと言いますなら、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死において、命の源である神から離れ、罪と死のもとに渡されていた私たちが、神との和解を与えられ、命の源である神に結び合わされる自由が与えられるということであります。その自由は、罪のあがないの死からよみがえられたキリストのよみがえりの命と結び合わされる自由であります。
すべての人のため、十字架の呪いの死を死なれ、死からよみがえられたイエス・キリストの中に、罪の許しと永遠の義の命の約束があります。イエス・キリストよる罪のあがないを受け入れ、イエスを神の子・救い主と信じ、従うすべての人は、神とイエス・キリストとの永遠の命の交わりへ入れられます。それは、信じる者たちにおいて、今ここから生き始める命であり、イエス・キリストが再びおいでになる時、神により完成される命であります。私たち人間の命は、今や死の前で希望なきものではなく、希望を与えられている命として新たにされ、喜びの中に置かれています。そのことを覚えつつ新年の一日一日を、喜びに背負われてたどますように。
栄光とこしえに神にありますように。