すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書12章41~48節
説教題 「多く与えられた者からは
多く求められる」
主イエスの、天からの顕れに対する備えについての教えが続きます。教会の時は、主イエスの再臨を待ち望み、再臨に備える時として示されています。その時は、いつ来るのか隠されていますので、待望する者たちは油断なく、備えつつ、主の御心に従って御業に励みつつ、主のおいでを待ち望んでいかなければなりません。
教会には、権威を与えられ、務めに立てられた人々がいます。御言葉の教師、治める務めの長老、様々な奉仕を担う執事、等々。これらの権威を与えられた人々は、信徒の群れにおいて、信徒を支配し、自らの利得を求めたり、自らの力を誇示したりするために、権威を与えられているのではありません。その権威は、信徒に奉仕をし、イエス・キリストの群れを生けるイエスのからだとして形成し、イエスの救いの福音を全地の人々に届ける使命を果たすために与えられています。それゆえ、常にその権威を主の御心にかなって行使し、教会全体の益を作り出していくのであります。信徒ひとりひとりが、務めを与えられている人々からの奉仕を受け、その信仰生活を健全に立て、互いを愛する愛に守られて主が再びおいでになる日に向かってたゆみなく進んでいくのです。そうして、主イエスの天からの顕れの日、主の群れは、主の栄光の中へと移され、永遠の御国を受け継ぎ、主と共にある幸い、喜びへと至るでありましょう。
しかし、主イエスから務めのための権威を与えられている者たちが、油断して主の再臨を無視し、その権威を乱用して、あたかも自分自身が主イエスの群れの主人であるかのようにふるまい、主の群れを損ねるなら、主イエスが天からおいでになった時には、厳しい処罰を受けることになるのです。
彼らは、主イエスから多くのものを与えられ、任せられた者として、多くを求められる者たち(忠実な働きを求められる)と言われています。互いに仕え合い、敬い合い、戒め合って、主の群れとして主の日を待望していくことこそ、主イエスの群れにふさわしい有り様であります。主イエスが天からおいでになった時、顔を上げ、賛美と喜びに満ちて主をお迎えすることが出来るよう備えていくことこそもっとも重要なことです。主イエスの守りが豊かでありますように。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 ルカ12章49~59節
説教題 「時代を見分ける」
イエスの到来の時において起こることは、すでに、バプテスマのヨハネの宣教の中で言われています。(ルカによる福音書3章16~17節)
「わたしは水でお前たちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のある方が、おいでになる。わたしはその靴のひもを解く値打ちもない。このかたは聖霊と火とによってお前たちにバプテスマをお授けになるであろう。また、箕(み)を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き捨てるであろう」。
イエスとその御業に向き合うすべての人は、イエスに対する対応によって自らの永遠の救いか、滅びかが決定される決断の前に立たされるとの予言であります。イエスは、その宣教活動の中で、ヨハネの予言が現実となっていくことを明言しておられます。
イエスのみ言葉とその御業の中に、人々は、終わりの救いと裁きの時が近づいていることを見分けなければならないのです。彼ら自らの判断で正しく判断し、イエスの救いにあずかることが出来るよう、イエスによる神のあわれみと恵みのわざが行われています。神による救い主としてのイエスを、受け入れるに十分なしるしが与えられています。
イエスは、人々がその決断の時を、自らの救いのための決断をする時となるよう強く願っておられます。イエスに対する対応が、一人一人の決定的な最終的裁きとなるのは、イエスの十字架の死と復活による神の恵みのあらわれによります。
イエスの十字架の死を、自らの罪を贖う(あがなう)ための死として受け入れ、イエスの復活を、自らの罪の許しの新しい命のあらわれとして受け入れる者は、そのすべての罪を許され、復活の義の永遠の命の相続者として、定められるのです。そして、その確証として、復活して天に挙げられたイエスと、父なる神のみもとから聖霊の注ぎ(神の子の霊)を受けるのです。聖霊は、十字架と復活の主イエスを信じる者が永遠の命を持つことを確証します。
終わりの時、主イエスが天から現れる時(再臨されるとき)、永遠の命に定められた者たちは、イエスの栄光のかたちに入れられ、救いが完成されます。イエスを信じる者は、この希望の中で、地上の生を途上にある生として、愛と忍耐において生きる者であります。
栄光限りなく父・御子・御霊の神にありますように。