すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 使徒行伝1章12~14節
説教題 「聖霊の到来を待つ群れ」
十字架の死から復活され、散らされていた弟子たちを再びご自身もとに集められた主イエスは、彼らに天の父のみもとから、ご自身と御父の霊である聖霊の注ぎを約束され、御父の右へと昇って行かれました。弟子たちへの約束は、聖霊の注ぎだけではなく、み使いたちによる、イエスの再臨についての約束も語られています。この二つの約束のもとに弟子たちの働きの時が定められていました。
さて、復活の主イエスのもとに集められた弟子たちの集団は、11使徒たちをはじめ120名ばかりであったことが記されています。その中には、イエスの御生涯の間は、イエスの救い主として活動に否定的であった家族もいます。イエスの復活は、イエスを、神から来られた救い主として信じ従っていた人々を、再び強く結束させ、その輪はさらに広がっていたことが示されています。
イエスに召され、イエスの活動に初めから同伴した弟子たちは、イエスについて証言するために召されていました。彼らは、イエスの御業を手助けすることが務めではなく、イエスの為さるすべての業、語られるすべてのみ言葉(教え)を証言するために召されていました。が、その事はまだ明らかになっていませんでした。これが明らかにされたのはイエスの昇天の時の約束においてであります。「聖霊があなたがたに下るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(1章8節)。
イエスによる救いは、イエスの地上への到来、地上におけるイエスの御業と教えの活動、十字架の死、死人の中からの復活、そして、復活のイエスの昇天による聖霊の注ぎにより完成され、人々へともたらされます。このイエスとその救いの真理について、正しい理解が与えられるとき、弟子たちは、イエスを証言する務めを始めることが出来るのです。そして、その正しい理解は、人間的な能力にはよらず、ただ、上から注がれる聖霊の働きの中でこそ与えられるのです。聖霊の働き無しに、イエスの真理は明らかにならず、弟子たちにイエスによる救いの出来事を証言する力はないのです。
彼らは待たなければなりません。祈りつつ待つことが弟子たちに不可欠なのであります。イエスの群れとして、イエスの救いを宣べ伝える業をなすにあたって、弟子たちは、聖霊の到来とその働き、同伴を祈り求めて、待つことに心を一つにしたのです。それは、一人一人が、人間的な能力による判断、理解、解釈により頼んで、イエスを証言するのではなく、聖霊による解き明かしによって、イエスにおける同じ一つの救いの知らせを宣べ伝えることを意味しています。
栄光限りなく父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 使徒行伝2章1~13節
説教題 「約束の聖霊下る」
神の右に昇られたイエスによって、弟子たちの上に聖霊が注がれた出来事は、ユダヤの五旬節の祭りの日に起こりました。その日も一同は、いつものように神殿の一角に集まり、心を合わせて、聖霊を待望しつつ祈っていたのです。すると、一同のいる一角に、突然、天から激しい風の吹いてきたような音が響き渡り、また、舌のようなものが一同の上に現れ、一人一人の上にとどまり、一人一人を内側から動かして、神に向かって、様々な国々、地方の言葉で、神の救いの出来事を語りださせたのです。
その内容は、神によって約束され、成就された大いなる救いの御業についてでありました。120名ばかりの人々が、一斉に語りだしたその声は、遠くからは大きな一つの声に聞こえ、神殿のあちこちから、人々が集まってきて、その不思議な出来事の原因を知ろうとしました。彼らは、様々な国で生まれ、育ち、ユダヤの人々に約束されていた終わりの日の救いにあずかろうと、エルサレムに移住してきていたユダヤ人たちであったことが知られます。彼らのうちの多くの人々は、その生まれ故郷の国語でガリラヤの人々(イエスの弟子たち)が、神の大いなる救いの出来事を語っていることに深い驚きをおぼえ、そこで起こっている出来事の真実を求めました。しかしまた、一部の人々は、弟子たちが、朝から新しい酒に酔って酩酊状態であるとあざけることにより、納得しようとしたのです。
イエスの弟子たちが語っていたのは、明らかに聞きわけることのできる様々な国々の言葉であり、聞いた人々が不可思議に思ったのは、なぜ彼らが、住んだこともない彼らの生まれ故郷の言葉で語ることが出来、語っているのかということであります。ここには、神の御意図が示されていると言えるでしょう。弟子たち一同の上に聖霊を注がれるだけでなく、彼らを取り囲むすべてのご自身の民(ユダヤ人)に、聖霊を通してなされるイエスの救いの知らせを、弟子たちの証言を通して聞かせる御心であります。
そしてそれは、やがて来る、全地の人々が、自分の国の言葉で神の救いの良き知らせを聞き、神の救いにあずかり、神のもとへと集められる終わりの救いの出来事を予示していると言えます。
聖霊降臨の出来事を通して、イエスの弟子たちの周りに集められた人々に、弟子たちは初めて、イエスによる神の救いの出来事を証言したのです。この時から、イエスの救いの証言をする群れとして、聖霊に導かれるイエスの共同体、イエスの教会が形成されたのです。したがって、聖霊降臨日(五旬節:ペンテコステ)は、教会の誕生日と言われます。
聖霊は、イエスの救いを確かなものとして、イエスを信じる者に保証し、天の神の右におられるイエスと弟子たちを結び合わせ、終わりまで共にいて下さる神であられます。聖霊の神に担われつつ教会の働きがあります。
父・御子・御霊の神に栄光とこしえにありますように。
聖 書 使徒行伝2章36~42節
説教題 「イエスの名による罪の許しのバプテスマ」
聖霊を受けたイエスの弟子たちの群れは、早速、彼らに命じられていた使命を果たすことへと向かっていきました。
聖霊の働きを受けて、様々な国の言葉で神の大いなる御業について神に向かって語り、神を讃美しているイエスの弟子たちの群れは人々を驚かせ、集まってきた多くの人々の心を、その出来事の真実を知ろうとする方へと心を開かせたのです。それは、イエスの弟子たちがその使命を果たす絶好の機会となりました。彼らはこの機会をとらえて、イエスの共同体としての最初の宣教を行ったのであります。群れを代表して12人の使徒たちが人々の前に立ち、ペテロが聖霊降臨に至る神の大いなる救いの出来事について、旧約聖書の予言を引用しつつ、イエスを救い主として証言する説教をしたのであります。この説教の聴衆は、イエスの公的活動(神の教えと力ある業)と、十字架による苦難の死について見聞きし、また、かかわっている人々でありました。彼らは、ペテロの説教を通して、彼らが知ることのできなかったイエスについての真実を知らされたのであります。
イエスの教えと力ある御業は、イエスが神により遣わされた救い主であることを示していたこと、そうであったにもかかわらず、イエスは、その遣わされた民(ユダヤの人々=イスラエルの人々)により捨てられ、異邦人(ローマ人=ポンテオピラト)の手に渡され、十字架につけられ殺されたこと、 しかし、神は、このイエスを死人の中からよみがえらされ、ご自身の右の座につかせ、救い主として立てられたこと。この神の右に昇られた復活の主イエスのもとから、信じる者たちの上に終わりの救いの賜物、聖霊が下されたことが、力強く宣言され、宣教されたのです。
これを聞いた人々の多くが心を刺され、イエスを拒否し、十字架の死へと至らしめた彼ら自身の罪に恐れおののきながら、「わたしたちはどうしたらよいのでしょう」と、使徒たちに、彼らの救いへの道を尋ねずにはおれませんでした。
「悔い改めて、イエスの名によるバプテスマを受け、罪の許しと、聖霊の賜物を受けなさい。この救いの恵みは、あなたがたとすべての異邦人、地の果てまでのすべての人のために、神が、救い主イエスによって備えられた終わりの時の救いの賜物です」。
イエスの共同体(イエスの教会)を通してこの招きを受けた人々の3000人ほどが、この日、罪を悔い改め、イエスの名によるバプテスマを受けて罪の許しにあずかり、聖霊の賜物を受け、喜びと感謝に満たされたのです。こうして、イエスの教会は、聖霊の臨在のもとで、まず、終わりの時の、神の救いの約束を待望していたユダヤの人々への宣教から始めて、やがて、異邦人に対してもその宣教の働きを導かれ、地の果てまでを目指して、聖霊の導きを受けながら進んでいくのです。
聖 書 使徒行伝2章43~47節
説教題 「心を一つにする共同体」
天なる神の右に昇られたイエスの約束が実現し、聖霊が下り、イエスの弟子たちは、イエスを救い主として全地の人々に証言する力を与えられました。
その最初の証言は、エルサレムの神殿の庭で、12使徒たちの代表者であり、イエスの共同体の代表である使徒ペテロによってなされ、イエスを信じる人々が起こされていきました。罪を悔い改め、イエスの名によるバプテスマを受けた人々は、イエスの共同体としての交わりをなしていき、イエスの共同体としての、その独自の在り方を形成していきました。
新しい神の民としての彼らの集会は、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共に食事をし、聖晩餐を守るものであります。彼らは、使徒たちを通して主イエスの教えを受け、それを守り、イエスの死と復活の恵みを分かつ聖晩餐にあずかり、感謝と喜び、神讃美を中心にして共同体の生活をなしたのです。また、日々神殿にもうでて祈り、財産も共有しました。資産を持っている者はそれを売り、必要に応じて、みんなの者に分け与え、心を一つにして共にイエスの救いの恵みをその生活においても証ししていました。使徒たちを通しての言葉による宣教、共同体の生活を通しての救いの喜びの証し。それは、周りの人々に訴える大きな力を持ち、人々は、好意をもってイエスの群れに注目したのです。そうして、それらの人々の中から、神は、日々、救いの恵みを受ける者を仲間に加えて下さったのです。
エルサレムから周辺へと広がっていく諸教会の母なる教会として、エルサレムの初代教会は、しっかりとその新しいイエスの共同体(新しい神の民)の秩序を、ユダヤ人の神礼拝の伝統を受け継ぎながら、形成していきました。
新しい神の民の礼拝の特徴は、聖霊による喜び、聖晩餐を共にする神の国の交わりであります。イエスの礼拝共同体は、すべてのものを分かち合いつつ、喜びに満ちた共同の食事をし、聖晩餐に共にあずかり、神の国の完成をもたらす主イエスの再臨を待ち望む礼拝を形成していたのです。聖晩餐を囲む共同体は、主イエスの再臨を待ち望む共同体であり、救いの完成を待ち望む共同体であります。
「マラナタ、主よ、来たりたまえ」
聖 書 ルカによる福音書10章38~42節
説教題 「無くてならないもの」
イエスの一行は、マルタという女性の家に迎えられ、接待を受けることになりました。神の国の宣教をしておられるイエスをお迎えするということは、何よりもイエスを通して、神の国の教えを弟子たちや、集まってくる人たちと共に聞くということでありましたでしょう。しかし、マルタはその大事なことを、人々への接待に追われて見失ってしまっていました。そのことを見失うことなく、イエスの足元に座り、み言葉に耳を傾けていたのが妹マリヤであります。忙しく人々へのあれこれの接待に追われ、手伝いのほしいマルタは、妹マリヤのその姿にいらだちました。そして、マリヤが忙しくしている姉を手伝うこともなく、み言葉に聞き入ることを許しているイエスに不満と怒りをぶつけています。イエスは、マルタの心の中を見抜いておられます。本当はマルタもイエスの足元に座り、御言葉に聞き入りたいのです。しかし、彼女は、客を迎えた立場として、客を接待することがしなくてはならない自分の務めであるということから離れられないのであります。そうして思い煩い、いら立っているのです。
イエスは、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、なくてならぬもの多くはない。いや一つだけである」と諭(さと)しました。
イエスがおいでになり、イエスがご自分の奉仕を為さる時、
人間の為すべき唯一のことは、イエスの奉仕に心を開き、身をゆだね、イエスの奉仕を受けることだけであります。これ以外のことは求められていなと言えます。そして、まず、このイエスの奉仕を受ける者だけが、イエスに対するふさわしい奉仕をなすことが許されるのであります。それは、義務としての奉仕ではなく、感謝としての奉仕であり、イエスを救い主としてあがめる奉仕であります。決して義務や強制からの奉仕ではありません。イエスをお迎えするということは、イエスの御奉仕を受けるためであることを、見失わないことがなくてならないことであります。わたしたちがあずかる教会の奉仕において心にとめるべきことは、わたしたちがなす奉仕の前に、常に、わたしたちに対するイエスの奉仕が先行していなければならないということであります。日ごとに新しく、イエスの御奉仕を心いっぱい受けることにより、わたしたちは感謝に満たされ、心軽やかに喜びをもって分け与えられている奉仕を担う者となるでしょう。