すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書23章32~43節
説教題 「十字架につけられたイエス」
その罪が認められないお方であるにもかかわらず、イエスを「十字架につけよ」と叫ぶ人々の声に屈したローマ総督ピラトは、十字架の処刑へとイエスを引き渡しました。処刑場は、エルサレムの門の外にあるされこうべと呼ばれていたところです。その刑場まで刑を受ける者は、十字架の横木を担いでいくのが習わしでありました。しかし、イエスが引かれていく途中で、その横木は、郊外から出てきたクレネ人シモンに無理やり負わされたとあります。イエスの弱られた状況を見て、そのような措置が行われたのでしょうか。
マルコによる福音書15章21節には、シモンが、「アレキサンデルとルポスの父」と記されており、ローマ人への手紙16章13節には、「主にあって選ばれたルポス」と、ルポスの名がり、この人々は、初期の教会でよく知られていたキリスト者であると考えることが出来ます。イエスの十字架を背負うことで、シモンはイエスの十字架の死を見守り、後にキリスト者になり、その子らもキリスト者になったと考えられます。
イエスを信じ、その恵みを受ける者はまた、イエスの苦難にもあずかる者であると使徒パウロは語ります。
イエスの十字架は、二人の犯罪人の真ん中に立てられました。イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです」と、ご自分に敵対する人々のために、父なる神にとりなしをされました。その間も、人々はイエスに対する悪口、あざけり、ののしり、からかいをやめることがありませんでした。
しかし、驚くべきことに、その中で、共に十字架につけられている犯罪人の一人が、イエスの真実を見ることを許されました。その犯罪人は、自らの十字架刑は、当然の報いであると受け入れていたのですが、イエスには、十字架刑を受ける何らの罪もないと確信します。そして、人々が、イエスを救い主として受け入れることを拒否し、あざけり、否定しているのとは反対に、まことにイエスは神の子、救い主、王なる方であると告白します。そして、自らの救いをイエスにより頼んだのであります。その時イエスは、彼の信仰にこたえて、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と確約されたのです。人々の悪口、あざけり,拒否に惑わされることなく、イエスの真実にまなざしを注いだ一人の犯罪人に、神はイエスの真実を見ることを許され、イエスにおける救いへと入れて下さったのであります。パラダイスとは、神の祝福と喜びの満ちているところです。イエスを信じ、受け入れる者は、信じたその時からイエスのすべての祝福と結び合わされ、イエスの救いの喜びの中に入れられます。イエスのいるところが、信じる者たちのいるところであります。イエスの御国の民として、信じる者たちは、イエスと共にあるのです。
聖 書 ルカによる福音書23章44~49節
説教題 「わたしの霊をみ手に委ねます」
イエスは、朝の9時ごろ(マルコ福音書15:25)十字架につけられたのですが、昼の12時ころになると、太陽は光を失い、3時に及んだとあります。この暗黒の意味するものは何でありましょうか。それは、神の裁きの顕れであり、すべての人の罪の裁きをご自分の身に引き受けられたイエスのお苦しみの極まりを示すものであり、人間の罪を克服するためのイエスの戦いの極まりを示します。イエスはこの裁きの暗黒を引き受け、救い主として、地上におけるご自分の使命を十字架の上で成就されたのです。これにより、エルサレムの神殿では、聖所の幕が真ん中から裂けるという出来事が起こりました。これまで、その民のために贖罪の犠牲をささげてきた聖なる場所が、神によって破壊されたのです。
この出来事の意味を、へブル人への手紙9章12節が語ります。
イエスがご自分を、傷のない者として神にささげ、その血で永遠のあがないを全うされたので、年ごとに聖所で、動物の犠牲を通して行われる贖罪の業はもはや不要となったと。十字架の主イエスを通して、すべての人は、神のみ前での罪を洗われ、清められ、はばかることなく神のみ前に出ることを許され、神との交わりをなすことが出来る身分を与えられるのです。(へブル4:16)
イエスは、午後3時に「父よ、わたし霊をみ手に委ねます」と言って、息を引き取られました。神から来られ、神によって与えられた地上におけるすべての業を成し遂げられたイエスは、信じ従う父なる神のみ手にご自分の霊をゆだねられました。イエスのこのような、神に対する信頼に満ちた死は、イエスの十字架を見つめていた大勢の人々に、彼ら自身の罪を深く悟らせ、悔い改めを迫るものとなりました。彼らは、その罪を悔いつつ胸を打ちながら家路についたとあります。
彼らの罪の自覚は、やがてイエスにある神のあわれみと許しに出会うでしょう。そして、イエスの恵みを受け、イエスの共同体を形成する人々となるでしょう。なぜなら、イエスはすでに十字架の上で彼らのために、父なる神にとりなしの祈りをささげているからです。
ルカによる福音書23章34節「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」。
栄光、永遠に父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 ルカによる福音書24章1~12節
説教題 「なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
十字架の上で息を引き取られたイエスは、議会の議員のひとり、アリマタヤのヨセフ(ヨセフは、善良で正しい人で、イエスに対する議会の決議には反対していました)によって引き取られ、ヨセフの所有するエルサレムの園の誰も葬ったことのない墓に葬られました。ヨセフは、イエスのひそかな弟子でありました。ヨセフと共にイエスの葬りをしたのは、夜に、イエスを訪れて教えを乞うたニコデモという人であります。彼らは安息日が明けようとしている中で、急いでイエスの葬りをしたのです。その葬りをずっと見守り、その墓を確認し、イエスの葬りを自分たちの手で正式に行おうと、備えていた女性たちがいました。彼女たちは、ガリラヤからイエスに従い、男の弟子たちが逃げ隠れしていた時、遠くからずっとイエスの十字架を見守り、その死を見守り、そして埋葬をも見守ったのであります。前面には出ることのなかったひそかな弟子たち、女の弟子たちが神に用いられ、イエスの葬りがなされ、確認がなされました。イエスは事実死人の中に下られたのです。イスラエルの希望が失われた苦しみ、嘆きが、弟子たちを襲っていました。
しかし、葬りから三日目の朝、週の初めの日の早朝、イエスの遺体を自分たちの手で正式に葬ろうとして墓にきた女性たちは、驚くべき事実と出会ったのです。墓は開いていて、中に、イエスのご遺体はなかったのであります。途方に暮れていた女性たちの前に、輝く衣を着た二人の者が現れ、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、殺され、そして、三日目によみがえると仰せられたではないか」。
女性たちはイエスの言葉を思い出し、彼女らに告げられたイエスの甦りの知らせを使徒たちやほかの弟子たちのもとへと届けました。しかし、彼らは信じることが出来ませんでした。ペテロは、確認のため墓に走っていき、なかに入って、 イエスの遺体を巻いていた亜麻布だけが残されているのを不思議に思いつつ帰ったのです。イエスの復活の出来事が、事実として弟子たちに受け入れられるまでには、繰り返し、様々な場面での復活のイエス出現がありました。
最初、愚かな話として、信じなかった弟子たちは、その不信仰を叱責されつつ、復活の主イエスとの交わりの中で、信仰へと進み、イエスの復活の喜びの中へと入れられていったのです。死の力を打ち破られたイエスの恵みの中で、信じるすべての人は、死の力から解放され、永遠の命の支配のもとに移されます。主の御名に、父・御子・御霊の神にとこしえに讃美あれ。