すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 第一ペテロの手紙2章1~10節
説教題 「神につける民」
イエス・キリストの十字架のあがないと復活による恵みを信じる、
罪と死の力から解放された者たちは、神により新しく生まれた者た
ちであります。この新しい生まれは、永遠の御国を相続する生であ
り、御国の相続の時まで、神の御力に守られ、待望の中を生きる生
であります。
神から、信仰により新しく生まれた人々(イエス・キリストの民)
の新しい身分について示されています。
死人の中からよみがえられ、天に昇られ、神の右において大祭司
としての務めをしておられるイエス・キリストと結び合わされてい
る人々(イエス・キリストの教会)は、イエスの大祭司職にあずか
る人々であります。彼らの真中に神が臨在し、神は彼らを用いて、
ご自身の救いの御業をなさいます。彼らは、イエス・キリストにお
ける神の救いをすべての人に宣べ伝え、すべての人を神の救いへと
招く神につける民であります。彼らは、そのような奉仕を許される
人々として、神により清められ、受け入れられている聖なる民であ
ります。そして、彼らは聖なる民として、すべての人のためにとり
なしの務めを担う神の祭司の民であります。
神から新しく生まれた者たち(キリスト者)は、自らのためにの
み生きる者たちではなく、神から、神の御業に奉仕する者として召
されている者たちでもあります。したがって、彼らは個人的にも、
共同体的にも、神からの務めを担いつつ、神と共に生きる者たちで
あります。
神の民であり、神の祭司の民であるキリスト者は、日々の生活の中
で、自分のためばかりでなく、信仰共同体の兄弟姉妹のため、家族
のため、周りの人々のため、自国の民のため、全地の国々の民のた
め、その為政者たちのため、とりなしをする務めがあるのです。
全地の主であられる、生ける、イエス・キリストの父なる神に、
すべての人が膝をかがめ、その御心を受け、救いの恵みにあずかり、
御名を礼拝讃美し、栄光を神に帰するようになる時まで、とりなし
の務めを担う恵みの奉仕があります。この奉仕のため、イエス・キ
リストの共同体は、心を一つにして祈りを合わせ、それぞれの賜物
を働かせ、主の民の栄光を担うのであります。もはや、この世に属
する者たちではなく、神に属する者たちであり、神から生きる者た
ちであります。
父・御子・御霊の神に、栄光とこしえに神にありますように。
聖 書 ペテロ第一の手紙2章13~17節
説教題 「自由人にふさわしく」
信仰者は、この世の旅人であり、寄留者であると、11節で語られています。彼らは、天の故郷を目指して旅をしている途中なのであり、この世に定着する者たちではありません。したがって、この世は、しばらくの間の滞在地であります。イエスの民としての信仰者は、この世の人々と同じ存在ではなく、神に在っては、この世のあらゆる束縛から自由にされている者たちであります。ただ神だけが、彼らに支配をふるい、彼らを従わせる権能をもっておられます。彼らが神に従うのは、その自由の霊においてであり、神を愛する自由が彼らの自由の本質であります。そして、その自由はまた、自分自身のように隣人を愛する自由でもあります。
信仰者が与えられている自由は、神の御業に奉仕をする務めへの自由でもあります。神は、全地の人々を神の救いの中へと招き、救いを与え、全き平和を地に実現すことを願っておられます。その神の永遠のご計画の中で、イエスの民が起こされ、聖別され、世に遣わされています。
信仰者に対する神の求めは、平和を追い求め、世の秩序(制度)に従い、人々の中で善を行い、神の栄光を証し、神の救いを宣べ伝えつつ、御心の成就の日を待つことであります。
イエスの民は、世にいる間は、世の権威者(主権者)の権威に従うことを勧められています。ただし、自由な者としてであります。隷属的にではなく、進んで従うのです。なぜなら、すべての権威は、神からきており、神は、悪を行なう者を罰し、善を行う者をほめるため、権威をもつ人々のもとにいる民の利益のために、権威者を立てておられるからです。
したがって、権威を持つ人々に従うことは、神への奉仕として従うのであります。強いられてではなく、自主的に神のために従うのです。
権威者が、神の御心に従わない方向で権威を行使する場合は、抵抗することが神への奉仕となることがあるでしょう。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神に在りますように。
聖 書 第一ペテロの手紙2章22~25節
説教題 「神に委ねる信仰」
神に在ってこの世を生きるキリスト者の生活は、神の栄光の現われることを願うものであることがもとめられます。その模範として示されているのが、苦難におけるイエスの在り方であります。イエスは、イエスの裁判を押し付けられたローマの総督ポンテオ・ピラトにより、「罪のないお方」と宣言されつつ、ユダヤの人々の叫びに屈したピラトにより、十字架の処刑へと引き渡されました。処刑場までの道のり、そして、処刑場において、人々からの悪しき行為の数々を受けられました。ののしり、偽証、軽蔑、つばき、棒での打ちたたき、着物のはぎ取り、悪口、あざけりなどなど。
しかし、罪なきお方であるにもかかわらず、イエスはそれらのどの一つに対しても、怒りや脅しや仕返しの心を向けられませんでした。それはイエスが、無力なるお方だったからではありません。マタイによる福音書26章53節には、イエスを捕らえに来た人々に抵抗した弟子に対して、「あなたの剣をもとの所に戻しなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使いたちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか」と、戒めています。
イエスが、人々の様々な悪口、悪しき行為に何一つ抵抗なさらず、黙々とそのすべてを身に受けられたのは、神のみ旨であったからであります。イエスは、すべての罪ある者たちの救い主として、ご自分に定められた道を、神に信頼して、最後まで歩みぬくことをよしとされたのです。徹底的に辱められて、貶められて、最も低いところにまで低められた呪いの死であるイエスの死を、神は、すべての罪ある者たちの罪の呪いを取り除くあがないの死として受け入れてくだいました。すべての罪ある者たちに代わって罪の呪いの死を死なれ、罪ある者たちを罪と死の力から解放し、義の命にあずからしめるため、神から来るすべての道を、神に信頼して受け入れることでイエスの救い主としての道は完成されました。このイエスの完成された道の上で、キリスト者の道があります。
キリスト者は、後に続く救われる人々のため、イエスにならい、誰に対しても和らぎの心を持ち、神に信頼して、神から来るすべての道を受け入れ、忍耐と希望の中を進まなければなりません。キリスト者の真ん中に住まわれる神は、キリスト者であるご自身の民を通して、すべての人を救いに入れるための御業をなしておられます。イエスが、徹底して神のみ旨に従い、ご自身を神の御業にささげられたように、キリスト者も、天の御国の相続者としての恵みを受けて、それにふさわしい神奉仕を、喜びのうちに果たさせていただくなら幸いであります。
栄光限りなく父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 ペテロの手紙第一3章8~12節
説教題 「平和を求めてこれを追え」
3:8「最後に言う。あなたがたは皆、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい」。それぞれが立っている持ち場立場でのあり方についての勧めの後、イエスの共同体内部の交わりの在り方について勧められています。
まず、最も大事なこととして、心を一つにすることがあります。イエスの共同体は、生けるキリストの、一つの体にたとえられます。体は、多くの肢体を持ち、それぞれが異なった働きを担い、補い合って一つの体としての命を生きています。
イエスキ・キリストの生ける、一つの体として生きる共同体も、種々の異なる賜物を持つ者たちが、それぞれの異なる働きを担い、相互のために一体をなして生きていくのであります。イエスの共同体の仲間は、兄弟と言われます。それは、共同体のすべての仲間は、人間的な意欲で結合している仲間ではなく、同じ一人の神により、神の子らとして、新たな命をいただいている神の家族の中にいる人々であるからです。
よって、イエスの共同体である教会では、互いに、お互いを兄弟姉妹と呼び合い、一つの家族としての交わりを生きるのであります。神の家族としての共同体は、謙虚に互いを兄弟として受け入れ、理解し合い、思いやりを持ち、欠けを補い合い、愛を基として共同体を形成することが求められます。この共同体は、神の祝福を受け継ぐ共同体として神に召されているのですから、祝福を継ぐにふさわしい在り方が求められています。外の人に対してだけではなく、共同体の内部においても、祝福を継ぐ者たちは、悪に対して悪を、悪口に対して悪口を返すというようなことはふさわしくありません。祝福を受け継ぐ者として、祝福を返すこと(善を返すこと)が、ふさわしいのです。そのような在り方が、神と他の人々との間に平和を作り出すのです。
神は、善を祝福し、悪を罰する方でありますから、祝福を受け継ぐために召された者たちは、常に善に励み、神との平和、他の人々との平和を追い求めて、悪や悪口に善を返す在り方を追い求めていくことが求められています。神の御名はほむべきかな。
栄光とこしえに、父・御子・御霊の神にありますように。