すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 使徒行伝6章8~13節
説教題 「恵みと力に満ちたステパノ」
エルサレムの初代教会は、議会の人々からの敵対や迫害をくぐりつつ、また、内部における二つのグループの緊張関係の中で、外国生まれの人々から本国生まれの人々への不満が表面化した問題を、新たな務めを立てることで解決し、順調な成長を続けていました。しかし、ここに新たな敵対者が現れ、民衆や、議会の人々を巻き込んで伝道者に迫害の手を伸ばしてきたのです。その対象は、ステパノであります。
ステパノは、初代教会の執事(共有財産管理者)として選ばれ、その勤めに立てられていた人でありますが、使徒たちと同様に、御言葉の宣教に優れた力を発揮し、目覚ましい奇跡としるしも行っていました。外国生まれの人々のリーダーのひとりだったと言われています。しかし、ステパノを迫害したのも、ギリシャ語を話す外国生まれの人々の属する会堂の人々であります。ステパノに対する彼らの迫害の理由は、聖所と律法に逆らう言葉を吐いているというものであります。
イエス・キリストの到来における新しい時の、神の民の信仰生活についてステパノが深い理解のもとで語っていたことを推測させます。イエス・キリストにおける神の恵みの現われは、これまでの伝統的な神殿祭儀と律法順守の信仰生活を過ぎ去らせ、イエスの恵みとその御名のもとでの新しい信仰生活を来たらせたのです。律法を守ることによって義とされ、救いに入れていただくのではなく、イエス・キリストの十字架の死のあがないにおいて、罪の許しを受け、義とされ、
永遠の命の約束を受けるのです。イエス・キリストを救い主と信じる信仰における信仰生活が神により差し出されたのです。イエスのあがないの死は、永遠の効力を持つものであり、このあがないのもとにのみ、救いの道があるのです。
イエスのみ名のもとに集まる人々の中に、神の臨在があり、神殿という人間の手で作られた建物の中に、神の臨在は閉じ込められません。
律法と神殿祭儀に固執して、神から救い主として遣わされたイエスを受け入れず、その恵みを拒否することは、神の臨在をも失うことになります。神は、イエスにおいてその御業を為され、また、イエスを信じる者たちと共にあり、イエスのみ名の下で礼拝されます。
この新しい神の民の礼拝が、全地の人々の神礼拝あとして差し出されており、すべての人の救いの道となります。
聖 書 使徒行伝7章1~8節
説教題 「神の約束に生きる」
初代教会の執事の一人として選ばれ、立てられていたステパノは、使徒たちと同じように宣教活動もしていたことが知られます。ステパノの宣教は、しるしと奇跡も伴っていました。
その目覚ましい働きは、同じ外国出身者の会堂に属する人々にねたまれ、神殿と律法とに逆らう言葉を吐いたと、偽りの罪で議会に引き出され、訴えられたのです。議会の人々の前に立たされ、弁明を求められたステパノの顔は、ちょうど天使の顔のように見えたとあります。
それは、ステパノの無実を語っています。訴えられた罪から推測しますと、ステパノは、イエス・キリストにおける救いの出来事の意味を深くとらえていたと言えます。これまで、神殿でささげられていた罪の許しのための動物による犠牲の捧げものや、律法を守ることよる義の獲得(救われる条件としての)は、無効となっています。なぜなら、イエス・キリストが、罪なきご自身を、すべての人の永遠の罪のあがない代として、十字架の上で神にささげられたからであります。罪の許しを受け、神と和解し、永遠の命の救いを得るためには、十字架につけられ、死人の中からよみがえり、すべての人の救い主として、神の右に上げられたイエス・キリストを信じる信仰こそが必要なのです。イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人は差別なく罪の許しの恵みを得、永遠の命にあずかることが許されます。
ユダヤ人も、ギリシャ人もなく、自由人も奴隷もなく、男も女もないのです。すべての人は、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、神の子の身分を受け、神の国の相続者と定められるのです。したがって、神殿における祭儀による礼拝、律法順守による義の獲得
、神への従順から、イエス・キリストによる恵みを受け入れ、イエス・キリストを主とあがめる信仰による神への従順の道を、歩むべきであります。今や、神の民は、この新しい時を開かれ、ここへと招かれているのです。これが、使徒たちをはじめ、ステパノや、すべての宣教者たち、イエスの共同体が告げ知らせようとしている神礼拝であり、救いの恵みへの道であります。そこへと至るためには、議会の人々は、自らの在り方が、神の救いの御心に背くものであることを自覚す必要があります。ステパノは、この背きの在り方を自覚させるために、これまでのイスラエルの人々と神とのかかわりの歴史を彼らと共に振り返ったのです。そして、彼らが自らを、神への背きの中にあることを否定できないように突き付けています。しかし、ステパノの悔い改めへの招きは、受け入れられず、人々の怒りを買い、ステパノは、最初の殉教者となります。人間の罪のかたくなさが、いかに強いものであるかを
知らされます。神は、そのような人間を、なおも追い求め、救いへと入れるために宣教者を遣わし続けられます。神の愛は、測りがたいかな。
聖 書 使徒行伝7章17~29節
説教題 「神の時を待つ」
生ける唯一の神は、全地の人々の救いのためにご自身の救いの御業に奉仕する者を選びお召しになりました。それが、アブラハムとその子孫(イスラエル)であります。神の救いの御計画は、アブラハムに約束された約束を歴史の中で実現することを通して進められました。まず、アブラハムの子孫の増大であります。神の約束を受けた時、アブラハムの妻サラは、子供を産めない女性であり、子供がありませんでした。 しかし、神は、その妻サラに恵みを与え、その胎を通してアブラハムに男子イサクを与えられました。イサクを通して、アブラハムの子孫は、神の約束を満たす多くの子孫へと向かっていきました。まずは、12人の族長となる男子の誕生、次の段階では、イスラエルの民の救い主となる者の選び(末の子ヨセフ)と明示、そしてその者への兄弟たちの妬み、エジプトの奴隷への売り渡しであります。
しかし、神は彼らの神への背きの業を支配し、これを彼らの救いのためにお用いになるのです。エジプトで奴隷として売られたヨセフは、エジプト王パロにより、エジプト全土を治める宰相とされ、エジプト全土の食物を管理し、飢饉の時にも食糧不足のない体制を作りました。そうした中で飢饉が発生したのです。周辺の人々は、エジプトには食物があると聞きつけ、買い出しに来ました。ヨセフの兄弟たちも父ヤコブに命じられ、2回やってきました。
最初は、自らのことを隠していたヨセフは、2回目の時、兄弟たちと会い、父ヤコブとその家族をエジプトへ連れてくることを依頼しました。こうして、ヤコブ一族は、食物の豊かなエジプトに移住し、その人口は、増加していきました。やがて、エジプトの王にとって脅威となる存在となった時、迫害を受け、生まれてくる子供も殺すことを命じられ、奴隷とされ、順境から逆境の時へと転換したのです。
しかし、その頃、イスラエルは、一つの大家族から、一つの民族へと成長しており、神の御計画が次に進められる段階になっていました。一つの民族として、約束の地カナンに入る段階です。神は、エジプト人の迫害を通して、エジプトを出る心の準備をお与えになります。そして、迫害が始まった時、直ちに一人の幼子を、イスラエルの解放者とするべく選ばれ、守られました。そして、エジプト王の娘の子として、宮殿ですべての学問を身につけさせ、解放者としての力を備えさせられたのです。
その人がモーセであります。すべてにおいて、神の御業の時が満ち、神はその約束に従って、エジプトの地の奴隷からイスラエルを解放し、カナンの地に入植させる救いの御業をお始めになったのです。
全地の人々に対する神の祝福の約束は、その最終目標に向かってまた、新しい一歩が進められます。長い神の御業の積み重ねの中で、わたしたちの所に届けられた主イエス・キリストの救いの恵みを深く感謝します。
聖 書 使徒行伝7章30~37節
説教題 「神の召し」
神により派遣されて、イスラエルをエジプトの奴隷から救い出した神の僕モーセについて、ステパノは、議会の人々に語りました。ヨセフやモーセが、神により、イスラエルの人々の救い主として派遣された主イエスを予型する存在であったからであります。彼らは、神によりイスラエルの民に派遣されていたにもかかわらず、イスラエルの人々は、彼らを拒否し、神への反抗、不従順に歩んだのです。また、全地の人々の救い主である主イエスの到来を予言した予言者たちもイスラエルにおいて迫害されました。イスラエルは、神の律法を守らないかたくなな民でありました。それにも関わらず、神は、その選びと召しを変えられることなく、彼らを通して、イスラエルの危機をお救いになりました。ヨセフもモーセも、また、予言者達も苦難を受けつつ、神から与えられた救い主としての務め、予言者としての務めを、神にあって成し遂げました。神のあわれみ、恵みを受けてイスラエルは、諸民族の中で存続し、神の約束の実現である主イエス・キリストの到来の日を迎えたのであります。神の約束の実現をイスラエルの不信仰、不従順、反抗により阻むことはできません。神はご自身の約束に真実であられ、ご自由な為さり方で、あらゆる抵抗を越えて実現させられます。議会の人々により、拒否され、十字架につけられた主イエスを通して、神は、すべての人の罪を贖い、罪の許しの恵みを備えられました。人間の悪しき罪の業さえご支配下さり、ご自身の救いの御業に仕えしめられました。神の恩愛、あわれみは、測りがたく大きいのです。自らの罪を悔い改め、神のみ前にへりくだり、神の愛とあわれみを受けることこそ、律法を守ることになるのです。神の御愛にこたえて、神を愛し、隣人と共に神を讃美しつつ、平和を生き、神にある平和を証しすることが、神の恵みのもとに生きる者の大切な、光栄ある務めであります。
喜びをもって、主の平和の中を生き、主イエス・キリストの平和をすべての人に宣べ伝えてまいりましょう。
聖 書 使徒行伝7章44~50節
説教題 「神の王座と足台」
エルサレムの神殿をめぐって、イスラエルの人々が克服していかなければならない問題があります。それは、神の臨在がエルサレムの神殿にのみあるということでした。神殿は、そこで祈りがささげられる時、天におられる神がその祈りを聞きあげてくださるようにとの願いをもって、ソロモン王により建てられました。エルサレムの神殿にのみ、神の臨在を限定するためではありませんでした。
しかし、初代教会のころ、人々は、エルサレムの神殿を偶像化し、そこに神の臨在を限定し、異邦人の地にも神の臨在はあり、神の御働きがあることを認めようとしなかったのです。そのため、異邦人が異邦人の地で神の臨在に出会い、神の働きを受け、神の恵みにより受け入れられ、神の民の一員となることを受け入れなかったのです。しかし、事実、神は、イエス・キリストの救いの恵みにより、ご自身の子となる聖霊の賜物を注ぎ、イエスの教会を通して異邦人を受け入れつつありました。
神は、一つの民族における神の民の聖別から、今や、イエス・キリストを神の子、救い主と信じるすべての人を、ご自身の民として神の国を相続する者とされるのです。これは古くから予言者たちによって予言されてきた神の約束の実現した新しい時、終わりの時の始まりであります。アブラハムに語られた神の救いの御計画は、目標に達しているのです。
「地の全てのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12章3節)
神が全地の神として、全地の人々をイエス・キリストにより祝福してくださる時が満ちて、いまや、すべての人が信仰により神の祝福にあずかり、永遠の命の希望の中を生きることを許されるのです。この新しい時を受け入れるには、イエスを拒否し、イエスを殺した罪を悔い改めて、イエスを神から遣わされた救い主として認め、イエスの御前にへりくだらなければなりません。
伝統に固執し、神殿と律法による特権の民であることに神の救いを求めることから、新しく開かれた救い主イエスの恵みの中へと進まなければなりません。初代教会の伝道者たちは、この神による時の転換を、ユダヤの指導層の人々に告げ知らせるのですが、彼らは受け入れず、かえって反発し、エルサレム初代教会は、迫害を受けるのです。
しかし、神は、このようなかたくなな人々の、怒りや憎しみの上にもご支配の手を伸ばしておられ、神の前での彼らの悪しき罪の業をも、ご自身の救いの御計画に仕えさせられます。「先になる者が後になり、後になる者が先になる」。最も先に、約束を担ったユダヤの人々を祝福(救いの恵み)に与らせようと、使徒たちが奮闘したのですが、使徒たちを受け入れ、先に恵みあの祝福を受けたのは、後なる異邦人たちでありました、異邦人たちが祝福にあずかった後にユダヤの人々も悔い改めて祝福にあずかるであろうと、使徒パウロは神にある希望を抱いて異邦人の伝道に仕えていきました。異邦人の伝道が進めば進むほど、同胞の救いの日も近づくとパウロは神にある希望の中で、同胞のことを思いながら異邦人伝道に邁進しています。