信 仰 の 歩 み
坂 内 憲 之
主イエスを信じなさい。そうすればあたなも、あなたの家族も救われる
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
坂 内 憲 之
主イエスを信じなさい。そうすればあたなも、あなたの家族も救われる
私が育った家庭は父、母、長兄、姉、次兄、私の6人の家族でした。父は三重県の役人で、私の年代では、ごく一般的な家庭のようでしたが、唯一違う点がひとつありました。それは長兄の坂内勝が脳性小児麻痺で重度の身体障害者でした。運動機能すべてに障害があり、生まれた時から生活はすべて母の介護が必要でした。ただ目、耳、頭脳は正常で、母が小さい時に、文字を教え意思の疎通は、文字盤を押さえて行なう状態でした。この兄が大きくなり、20才台の時に、自分の生きることと、家庭の不和に悩みラジオのルーテルアワーから流れてくる『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる』の御言葉を信じ、次兄義之が高校で貰ってきて押入れにほりこんであった聖書を見つけ、聖書を読み始めました。そして宣教師や牧師の教えを受け、クリスチャンとなりました。勝は学校に行った事も無く、母千代子が教えた「ひらがな」しか読めなかったのですが、寒い夜も布団をかぶって聖書を読んでいたと、母が話していました。そして通信制の聖書を学ぶ講座(通信教育の回答は勝が抑える文字盤での回答を母千代子が書きとめました)も卒業しました。また勝は短歌も学び、キリスト教の雑誌に投稿し、選ばれ掲載されたことがあります。(以下に『勝』の写真と選ばれた『短歌』を掲載するので見て下さい。
坂内勝が造った短歌と文字盤指し示い自分の意思を書いた文章(母千代子が代筆したした)がありますから読んでください。)
十字架の
重みに耐えてたどりゆく
たどりゆく
道遠ければ
主よ助けませ
このこの度 100万人の福音 というキリスト教雑誌に思いがけず私が作った短歌を載せていただくことになりました。
それはこのような歌です。
「十字架の重みに耐えてたどりゆく
道遠ければ主よ助けませ。」
私は誕生 間もなく 脳性小児麻痺にかかり、 以来 今日まで話をすることも立って歩くこともできません 。体の自由といえば わずかに目の見えること耳の聞こえること、そして不自由ながらどうにか動く両手があることです。
ですから、たとえば自分の意思を相手に伝えるためには、文字盤に書かれた字を一つ一つ指で刺しながら読んでもらう状態です。
実はこの文章も、私がこのように文字盤を指し示した文字を母が代筆してくれたものです。このような私にも、字が読めるようになったのはとりわけ、母の隠れた愛と努力があったことを私は決して忘れません。
私は イエス・キリストを信じる前までは、 将来のことを考えるたびに大きな不安にかられたものです。 私はこれからどうなるのだろうか。 私は何のために生きてるのだろうかといった。 それは言葉では到底言い表せない 不安でした。 昼間はテレビやレコードでなんとなく気を紛らわすことができましたが、 夜になると 一人静かに自分のことを考える時間がやってくるとそれは不安というより恐怖の時でした。 さらに 私に与えられた 苦悩の上に家庭の不和 という問題が加わってきました。 ちょうどそのような状態の時、ある日、 ラジオを通してイエス・キリストの福音という放送が私の耳に入ってきたのです。それはまさに 迷える子羊 にも等しい私に神がもたらした救いの言葉、神の救いの招きの御声でした。神様は約束なさいました。主イエスを信じなさい。 そうすればあなたもあなたの家族も救われます。
私はその日から キリストを救い主と信じ、 救われる という問題について真剣に取り組みました。聖書の通信 講座も学び始めました。そして現在 皆さんに最初にお聞かせした神様に対する信頼の祈りの歌を発表できるまでに導かれてまいりました。
主イエス様は毎日それほど私の祈りに応えてくださり、豊かな恵みをもって導いてくださいます。いま私は主に対する信頼をますます強められてきたことを身をもって経験しております。確かに私は人並み以上に弱さや穢れを覚えているのです。それと同時に私は人並み以上に主イエス様の強さと恵に預かろうと信仰の道に励んでいます。
私は今更ながら、この貧しいものに与えられた主イエス・キリストの恵みの大きさと素晴らしさに驚きと喜びを感じている次第であります。私は皆様に申し上げたい言葉があります。皆様の中で、もし私と同様に自分のことで嘆き苦しんでいる方がいらっしゃるなら、どうぞイエス・キリストを救い主と信じて下さい。神様はきっと、今の苦しみを喜びに変えてくださいます。
母千代子は勝の生活のすべてをケアしてきました。勝が生まれたのは、昭和12年で生まれた時は未熟児で、数年後様子がおかしいので、阪大病院、京大病院などでも診てもらったとの事でしたが、病気が分からなかったと、母千代子が話していました。母千代子は妊娠中に転倒してお腹を打ったとの事で、これが未熟児出産の原因になったのではととても気にしていました。
勝の一日の生活は着替え、トイレ、食事、入浴など全て母千代子がケアしていました。家の中には『勝』が楽しめるように、犬、小鳥、熱帯魚などがいて、勝が管理していました。また家にはラジオしかない状態が長くあり、ラジオ放送を聞いて楽しんでいましたが、ラジオは1台しかなく、どの番組を選択するかで、良く兄弟ケンカもしました。また勝は将棋をすることもでき、兄弟で将棋もしました。
勝は若い時は食事の時は、自分の不自由な手で食物をつかみ食べる時もありましたが、普段は千代子がスプーンで一匙づつ口に入れ食べさせていました。夕食時にお肉を喉に詰まらせ、救急車で搬送しとってもらったこともありました。そんな家の中での生活でしたが、20歳になるまでは比較的元気に日々を送ってきました。
母千代子は勝のクリスチャンとしての活動を何時もサポートし、通信教育の回答作成や、
勝が好きな太平洋放送協会のクリスチャン番組への連絡や、宣教師、教会の牧師が自宅に来てくれた時の対応などをいつも行っていましたが、本人は洗礼は受けていませんでした。
木本キリスト教会の秋季特別伝道集会の時に、講師として羽鳥明先生が木本教会で講演され、講演終了後牧師先生が案内され、自宅に羽鳥先生が来て下さり、勝と千代子に会ってお話の時を頂き、その後羽鳥明先生がお祈りしてくださいました。その日の晩から、千代子はぐっすり寝られるようになったと、本人が告白しています。それまでは悩み、苦しみ、どのようにするかを考え、夜も寝られないような状態であったと、本人が話していました。そしてその後、洗礼を受け、母千代子がクリスチャンとなりました。
父坂内速夫は明治42年生まれです。坂内家の長男として生まれ、若い時に結核になり、この事が原因で、徴兵検査で不合格となり兵隊にも行けませんでした。そして自宅で治療を受けていましたが、この頃の「結核」は今の癌以上に死の病だったので、辛い時を過ごしたのだと思います。数年の闘病生活を経て、幸いにも元気な体に戻りました。
そのような中で千代子として結婚しました。戦争中は動員所の所長をしていたので、空襲警報が鳴るといつも母が、勝をおんぶして、二人の子供の手を引きながら逃げていたと母が話していました。戦後速夫は三重県の役人となりました。明治生まれの長男ですので、
家の墓の事が気になり、千代子と勝に「俺は坂内の墓を守っていかなければならない、千代子と勝と俺は別々の墓だね」と話しをしていました。そんな速夫が高齢になってから、老人性結核が再発し、結核病棟に入院し、3カ月間隔離病棟で過ごす事となりました。この時速夫は『死』の世界のことや、今後の事をどのようにするかを毎日考えたのだと思います。この入院が終わり自宅に帰ってきた時に、速夫は自分も洗礼を受けることを告白しクリスチャンとなりました。
私はこのような家庭で育ちましたが、私の宗教に対するイメージは非常に悪く、宗教を信じる人たちは「暗く、弱い人たち」といつも思っていました。私が目指す男の姿は『いつも凛としていて、苦しいことがあっても、決して苦しいといわない、いつも前を向いている』このような男が、私の目指す男でした。長兄勝からはクリスチャン新聞やパンフレットがいつも送られてきましたが、すべて開封することなく、ゴミ箱いきでした。こんな状況が20年以上あったと思います。
大学を卒業し社会人となり結婚し3人の子供の父親となり、ごく一般的な家庭でした。43歳のとき会社の管理職として毎日忙しい日々を過ごしていました。毎日仕事ばかりしていました。平日は遅くまで残業をし、土曜日、日曜日も仕事に行くような生活でした。夜寝ていても目が開きそれから仕事のことが頭に浮かび、朝まで寝られなくなる様なことが度々ありました。このような状況が3年くらい続いたと思います。
ある日新聞を読んでいると、心身症の記事が載っていました。その当時羽田沖の海中に日航機が墜落しその原因はパイロットが心身症で、心身症という病気が話題となっていたからです。その記事には自分で心身症かどうかの判定ができるように、10問の質問が設定されていました。私はその質問に自分で丸をつけてみました。すると10問中の8問に丸がつきました。私には丸がつく原因は仕事だと思いました。なぜ私は心身症になるほど仕事をするのだろうかと思いました。私には仕事をする理由が2つしかありませんでした。
一つは会社に入った同期連中に出世競争で負けたくないこと。もう一つは会社で出世し、社会的なステータスを得て、そして物質的にも恵まれること。でも考えてみれば、この目標がかなえられ、会社の役員になったとしても、役員にもやはり定年があります。その定年以後まだ今の平均年齢で考えても15年以上の年数があります。今の目で生活していたら、定年後の私は真っ白で何もないと思いました。仕事に対する自分自身の明確な考え方が必要だと思いました。そしてそれには私の背骨になるものが必要だと思いました。背骨になるものって何なんだろうと思いました。その時私に浮かんだのは、会社の仕事で多く見てきた海外の人たちの生活でした。彼らの日常生活は宗教と一体でした。自分の生活の背骨になるものは、宗教だと思いました。でも変な宗教を信じると、自分が洗脳されるから、よほど注意して選ばなければ危険だと思いました。そのとき頭の中に浮かんだのが、母と兄の信じるキリスト教でした。あの二人が信じて間違いないのだから、大丈夫だと思いました。そして1989年6月にはじめて津豊ヶ丘教会に行きました。そして毎日曜日は教会の礼拝に参加し翌年4月のイースターに洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
クリスチャンとなり4年後、バンコクに赴任する事になりました。教会でクリスチャン一人一人には神様が目的を与えられていると学びました。私は障害を持つ兄とその面倒を見ている年老いた母のそばにいるのが、私に与えられた神様の目的ではないのかと思っていました。その時に次のような文章が目に付きました。『神はすべての人の人生にご計画を持っておられる、という確信を手に入れました。いわば神は一人一人のその人でなければできないことを、この地上でなさせるために、救い召していることに気がついたのです。同時にこの使命は何であるかは、通常隠されていることが事実であることも知ったのです。多くの間、長い間、主の前に捜し求め、尋ね求めて、得られるものです。』この文章は、工藤信夫先生が洗礼を受けて後、約14~15年後に書かれた文章でした。赤ん坊のクリスチャンである私がまだ分からなくてもしかたがないのかと思いました。また次の聖書の箇所も目に付いた。『だから明日の心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に充分あります。』マタイ6-34 あまり母と兄のことを心配する必要はないのだと思った。また次の聖書の箇所も目に付いた。『神は御心のままに、あなたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわしてくださるのです。全てのことをつぶやかず、疑わず行ないなさい。(ピリピ2-13)
また次の聖書の箇所も目に付いた。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々には、神はすべてのことを働かせて、益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8-28)
何も考えず、すべてを主に委ねバンコクに行くべきだと思った。
バンコクではプロテスタントの合同教会である、バンコク日本語キリスト教会に所属しました。この教会は専任の牧師がいない、教会員が50人くらいの教会でしたが、50人の出身母体は40以上の団体になるような、プロテスタント超教派の教会でした。
この教会で日曜学校の教師となり、聖書の勉強をし、また教会運営を勉強する時間をいただきました。バンコクに行って3年目に会社はようやく単年度で収益を上げるようになりましたが、翌年タイを震源地とする、バーツショックが東南アジア全体を襲います。今まであった100の仕事が、10~20くらいしかありません。会社を経営する状況ではなくなりました。私に会社から与えられた会社の建て直しも全く見通しがなくなりました。この状態で帰っても私の会社の中でのポストは無いと思いました。そんな状況の中で、ある日新聞記事が目に入りました。
日野原重明先生が書かれた記事でした。先生の記事は『自分以外の人のことを配慮して生きてきたその人の‘時’こそが、その人の寿命の長さでなく深さであること、また人間の生涯の最後の時には誰もが問われる。生きてきたことに意味があったかどうか、また誰かの心の重荷をともに担ぐことがあったかどうか。』とありました。また同じ紙面の日野原先生の横に瀬戸内寂聴さんが出家するときの自分の心境を書いた記事が載っており、『現代人にとって50歳代は大きな節目最大の転機でしょう。今の50歳代はもう一度人生を仕切りなおすことができます。本当に自分にあった暮らし方と仕事を選びなおすチャンスです』と書かれていました。私もこのように残された人生を歩みたいと思いました。
日本に帰国後村上牧師よりベタニヤにて仕事をしてみないかといわれました。私の歩んできた経歴は、技術畑の仕事をしてきましたし、福祉に関しては、まったくの素人です。また私自身ベタニヤで働くことができるのだろうかと思いました。今までは会社で嫌な事があっても、教会の礼拝に来てまた翌週を歩んでゆく。その生活が、ベタニヤに勤務するということは、『いつも教会で生活するということだよ』と思いました。教会でトラブルがあったときはどこへ逃げ出せばよいんだ。逃げ出す場もなくなるぞ。また教会員の間でベタニヤに関してのさまざまな意見の相異があることも聞きました。そんな中で仕事ができるのだろうかと思いました。しかし教会が福祉の仕事を行なうことは、間違っていないと思いました。また教会が始めたこの仕事は、教会員の誰かが引き継いでゆかなければならないと思いました。神様が私にこのことをやりなさい、といわれているのであれば、直に従うのが、私の教えてもらった信仰のあり方だと思いました。まわりの状況はあえて考えることは無い。私と神様の問題だと思いました。そして放送大学で、福祉の勉強をしてみることにしました。しかし仕事を持ちながらの勉強はとてもできる状況ではありませんでした。翌年ベタニヤの東氏より、「施設長講習があるので受講してみないか」との案内があり、受講を申し込みました。しかしこの講習には1週間のスクーリングがあり、仕事状況はとても1週間の休みを取れる状況ではありませんでした。妻にこの講習を受けるのであれば会社を辞めなければならないと話していました。しかし妻は今会社を辞めて、ベタニヤに勤めることには、賛成をしてくれません。『ベタニヤは教会の仕事でしょう。教会の仕事でたくさん給料をもらえることは無いでしょう。今の私たちの家庭は、子供も学校に行っているので、収入が下がるのは困るのです』と彼女はベタニヤの仕事をするのに反対でした。その年に申請した講習は、受講希望者が多く私は受講ができませんでした。翌年再びその講習の受講を申請いたしました。その時には、会社は希望退職者を募集する状況となっていました。そして妻も今度はベタニヤで働くことを、了解してくれました。
バンコクにいるときに村上牧師がこられ礼拝で説教をされました。その時の説教題は『点と線』だったと思います。『人間の目ではその時々の点の状況しか見えないが、神様からの目で見れば、点が線となりつながっているのです。』との内容でした。私が豊ヶ丘教会に来て、バンコクに赴任し、またベタニヤの福祉の仕事に就くのも、私には線であったのかと最近思うことがあります。これからの先のことは、私には分かりませんが『神は御心のままに、あなた方のうちに働いて、志を立てさせ、事を行なわしてくださるのです。すべてのことをつぶやかず、疑わず行ないなさい。』といわれています。単純に従ってゆく私でありたいと願っています。