すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書8章22~25節
説 教 「信仰の試練」
イエスは弟子たちを共に、ガリラヤ湖を渡り、異邦人の住む地方へ行こうと船をこぎ出させました。ガリラヤ湖は時々突風が吹き、湖を渡る舟は、大きな危険に見舞われることがありました。ユダヤ各地から群衆が押し寄せる場所を離れ異邦人の住む地方へと、イエスは弟子たちを導かれましたガ、それは、弟子たちとの親密な交わりの時を持ち、ご自分と神の国の証人として、弟子たちを訓練するためでありましたでしょう。
イエスが、その弟子たちと親密な交わりを切望されたということは、イエスの弟子であるすべての者に対して、イエスが望んでおられることだと示されているでしょう。イエスから、福音宣教の使命を受けている教会は、常に、親密なイエスとの交わりを通してその導きを受け、その御力に信頼して進むことが求められます。それはちょうど、イエスが弟子たちと群衆を離れ、唯一人になる場所を求められ、父なる神との時間を祈りの中に過ごされたこと、そして父なる神のみ旨を受け取りつつ、死に至るまで父なる神にお従いしたことにならうものであります。
さて、湖上にこぎ出したイエスと弟子たちの乗った舟は、突風におそわれました。強い風が吹き荒れ、波は荒れ狂い、船に波が打ち込んできて満ち、今にも沈みそうであります。弟子たちは恐怖のあまり叫び声をあげながらイエスの姿を求めたのです。なんとnイエスは、船尾のほうで何事もないかのように眠っておられたのでした。弟子たちはイエスに駆け寄って揺り起こし、「私たちは死にそうです」と危機を訴えました。すると、イエスは静かに起き上がって、風と波に向かい、 静かにするよう叱りつけたんです。風も波もすぐにイエスのお言葉に従い、静まって、湖上は凪になりました。イエスは、また、また弟子たちをもお叱りになりました。「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。イエスが共におられるのに彼らは、彼らの危機をイエスが何も知らず、無関心に眠っておられるかのように思い、恐怖で混乱したのです。イエスに、信頼し、落ち着いて、確信に満ちたこころで、イエスとの助けを求め、イエスを呼ぶ姿は見られません。
そうです。彼らの従っているイエスについて、いまだイエスが期待しておられる信仰に至ってないのです。イエスの数々の力ある御業を見聞きし、イエスの権威ある教えを受けながら、彼らの信仰の眼は、まだ、ほとんど開いていないのです。
弟子たちとの親密な交わりの時間を持とうとされたイエスの目的は、彼らに、御自身がだれであるかを開示することであったのです。イエスは、荒れ狂う風と波をも支配する大能の神の権能を持つ方として振る舞われ、弟子たちの目を開かれました。いかなる状況下でもイエスが彼らのことを知っていてくださること、彼らに救いの手を差し伸べてくださることに堅く信頼して、イエスと共あることを導いておられます。イエスの教会は、常に新しく、御言葉を通してイエスの真理を知り、イエスに対する信頼を新たに告白しつつ、イエスに従っていくことが求められていると言えます。すべてのものの救い主であるイエスの中に、信じる者たちの救いの恵みが豊かに隠されています。惜しみなく与えてくださる神から、イエスを通して必要な賜物をいただき、神の御業に喜びと感謝をもってあずかって行きましょう。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 ルカによる福音書8章26~28節
説 教 「恵みを受けて」
イエスの弟子たちは、異邦人が住んでいるゲラサの地に舟から上がりました。その最初に出会ったのは、悪霊レギオンに(400人~600人から成るローマの軍団の名)つかれ、墓場を住みかとしていた人であります。家族や町の人々は、その人が遠くにいかないよう、手かせ、足枷をしてつないでいましたが、たびたび鎖を引きちぎっては、悪霊により荒野に追いやられ、墓場に住んでいたのです。その人の人生は、強力な悪霊の支配によりすっかり占領されていて、自らの人生を失っている悲惨な、暗黒の状態にありました。
しかし、そのような悲惨な状況にあるその人のもとに、その暗黒を照らす救いの光が登ってきたのです。イエスこそはその暗黒の支配を終わらせ、光の満ちた中へと、その悲惨な人生を移して下さる主なる方です。
悪霊の暗黒の支配を受けていた人は、イエスが接近すると、悪霊の命令によりイエスに抵抗を試みますが、その抵抗はイエスには効力がありません。イエスは、悪霊の実態を見極められ、彼らに定められている滅びの淵へと彼ら自身が向かうことを良しとされ、彼らの願いを許しました。神に敵対する悪霊は、神の子イエスが主としておいでになるところでは、存在することができません。イエスの追放から逃れるため、悪霊は近くで飼われていた 豚の群に目をつけ、豚の群への移動を願いました。しかし、悪霊の軍団はそれを許可されるも、混乱した豚の群とともに雪崩を打って崖から落ち、湖へと沈んでいきました。
悪霊に取り憑かれていた人は、悪霊の支配から完全に開放され、自らを取り戻したのです。
そして、今やその人は、正気となり、きちんと服を着てイエスの足元に座り、イエスに所属するものとなったのです。神のもとにある自由をもって、本来の自分の命を生きる人生へと大きな方向転換が起こったのです。イエスにより大いなる恵みが与えられ、恵みの証人として栄光ある者となり、新しく創られたいのちを主に従って生きるようになったのです。
イエスの御力がわたしたちの上に働く時、わたしたちは真の自由を得、神と隣人を愛して生きるところの、本来の人生を生き始めるのです。神によって創造され、神の形に創造された人間は、神と向き合って、神を主と崇めて生きることが本来なのです。そこから遠く離れてしまった人間を、神のみもとへと連れ帰り、神の子の特権を与え祝福して下さるイエスの恵みこそ、私たちになくてならない恵みであります。
栄光とこしえに父・御子・御霊にありますように。
聖 書 使徒行伝18章1~10節
説教題 「恐れるな、語り続けよ」
使徒パウロはアテネをさり、コリントへやって来ました。この町は、紀元前146年に、ローマによって破壊され、100年後、アウグストゥス帝により再建されたが、その時、解放奴隷を入植したのです。コリントは、アカイヤ州の首都にも昇格し、「ギリシャの星」を自負しており、 地中海世界の中心地になっていきました。西方と東方を結ぶ中継点にあり、東西のあらゆる物資がここに集まり、多くの地方から人々が商売や就職のためにやってきていました。そのため、また、さまざまな外来の祭儀が持ち込まれ、犯罪や不道徳も蔓延していたのですが、福音宣教にとって豊かな可能性を秘めていました。
パウロは、ここで、生涯にわたる福音の同労者となるアクラとプリスキラ夫妻に出会いました。彼らは、クラウデオ帝の時に出されたユダヤ人追放令によって、ローマからコリントにきていたのです。天幕造りが彼らの職業でありました。パウロは、同業である彼らと同じ家に住み、天幕づくりを共にしながら安息日には会堂礼拝に参加し、そこにいるユダヤ人やギリシャ人に主イエスの到来を宣べ伝えました。やがてシラスとテモテもマケドニアからやって来ましたので、彼らの支援により、パウロは宣教に専念しました。しかし、ユダヤ人から受け入れてもらえず、ののしられ、反抗され続けてため、彼らとの決別を決断をしなければなりませんでした。
生ける唯一の神を敬うギリシャ人の中に、イエス.キリストを救い主として受け入れる人も現れました。テテオ・ユストというギリシャ人の家で、パウロの新しい宣教の時が始まったのです。ユダヤ人への伝道から異邦人中心の伝道へ転換が起こり、もっぱら異邦人をイエス.キリストの救いへと招くパウロの宣教活動が展開されていきます。その転換について、神の承認が夜の幻を通してパウロに与えられました。
「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。あなたにはわたしついている。誰もあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、私の民が大勢いる」。
続々と多くの異邦人がパウロの話を聞いて信じ、イエスの名によるバプテスマを受けました。そして、長期の1年6ヶ月に渡り、コリントの宣教が続けられたのです。コリント教会は、初期のキリスト教会の中で最も活発な教会として成長していきました。
神の御業は測りがたきかな。栄光とこしえに父・御子・聖霊の神にありますように。
聖 書 使徒行伝19章1~10節
説教題 「イエスの名によるバプテスマ」
南部 ギリシャ アカヤ(首府はコリント)に新しい総督 ガリオが着任した時、 パウロに対するユダヤ人の迫害が起こりました。 それを機にパウロはコリントを去り、 次の伝道計画に向かって動き出しました。まず、 エルサレムに上り、 それまでの ヨーロッパ 伝道の報告をしてから、出発地のアンテオケに帰り、 挨拶を交わし、 報告をしてしばらくの間 兄弟たちと過ごしました。
その後、 パウロは、ガラテヤ、フルギヤ 地方 の教会を 歴訪する 第3 伝道旅行に出発したのです。 諸教会を励ましつつ、奥地を通って西に向かって進み、パウロがエペソに入った時、 イエスの先駆者である バプテスマのヨハネ を通して、悔い改めのバプテスマを受け、 イエスを信じるようになっていた 一団の人々と出会いました。その人々は、しかし、 イエスの十字架と復活による神の右への 高挙、 そして、 イエスを神の御子、 救い主と信じる人々に終わりの救いの賜物である聖霊を降した出来事を知りませんでした。 そこで、 彼らが受けた ヨハネのバプテスマ が、イエスの名による バプテスマを受け、終わりの救いの保証である聖霊を受けることに向けられていることを伝え、 彼らにイエスの名による バプテスマを受けさせました。 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、 彼らは 異言を語ったり 、予言をしたりし出だしました。彼らの上に、主イエスから聖霊が降ったことを具体的に示すものとして、異言と予言の賜物が与えられたのです。もちろん聖霊は、常にこのような現象を伴って降りるわけではありません。聖霊は、またひそかに、風のようにイエスの福音を聞く人々の中に働いて、イエスを救い主と信じる力、イエスと共に神を「父よ」と呼ぶ、子としての力を与えます。
さて、イエスの何よる バプテスマ は、イエスの十字架と復活の恵みの中へと 信じる者を入れます。 別の言い方をすれば、罪の人間を、 罪の洗いの永遠の義の命の中へと移します。そして、 イエス・キリストの体である教会の一枝 とします。 イエスの名よる バプテスマを受けた人は、イエスの教会において、 つまり、 イエスにおいて生き、 死にするのです。 イエスを離れ、また、イエスの教会を離れて、生き死にするのではありません。イエスのバプテスマを受けた人は、イエスに所属するものであり、 イエスがその主であります。 その生と死において、
イエスが共にいてくださり、 ご自身の復活の 栄光の形 へと導いてくださるのです。
栄光 とこしえに 父・御子・御霊の神にありますように。