すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 出エジプト記1~17節
説 教 「神の律法の下で」
イスラエルの人々をエジプトの奴隷の家から導き出された神は、シナイ山のふもとで、イスラエルの民にご自身を現し、彼らと契約を結ばれます。イスラエルの長老たちが民を代表してモーセと共に神の前に出、神の契約のみ言葉を受け、それを守ることを誓ったのです。神の宝の民となり、神に対して祭司の国になることは、イスラエルが、神の契約を守ることの中で実現されていきます。
神の契約のみ言葉である律法は、イスラエルを自由の民としてご自身に属させ、ご自分に奉仕をするものとして恵みを与えられた恵みの律法であり、神の救いの恵みに応える生活を導くものであります。喜びを持って聞かれ、守られことがふさわしいものであります。
さて、神の契約の言葉である律法の初めの部分には、その基本となる十戒が述べられています。十戒は、神と人間との関係と人間同士の関係に関わる十の戒めからなっています。その内容を要約するなら、神との平和の保持であり、人間同士の平和の保持でありあります。新約聖書においては、神を愛すること、自分自身を愛するように隣人を愛することと要約されています。
イスラエルは神奉仕を担う民でありますから、何よりも神との間に平和がなければなりません。神との平和の保持のためには、神以外のどんなものをも神にしてはならないのです。イスラエルを選んで召し、ご自分の民として恵みを与えてくださった神をこそ信頼し、この神からすべてを受け、この神に一切を帰す信仰を貫くことが求められます。
神によって共に選ばれ、召され、救われた民は、神に属するものでありますから、そのような者として互いを敬い、認め、守る共同体の生活を建てなければなりません。そうすることは、神を敬うことであり、神を愛することであり、神に従うことであります。
神との正しい関係が人間同士の関係をも正しい姿に導くのです。神のご支配はその本質において、人間と神の平和、人と人との間の平和を生み出します。
わたしたちの世界の真の平和は、すべての者が神のみ前にひれ伏し、神のご支配を喜んで受ける時に実現するでしょう。イエス・キリストは、その平和の中心であられます。イエス・キリストは、神に敵対するわたしたちの罪を十字架につけ、神と和解させ、神と隣人とを愛する自由を聖霊においてわたしたちに与えて下さいます。キリストにある神の平和が、わたしたちの世界に広く浸透しますよう願います。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 ルカによる福音書8章1~15節
説教題 「神の言葉を心に刻む」
イエスは、町々村々を巡回しながら神の国の福音を述べ伝える旅を続けていました。
そのお供には12弟子の他に、多くの婦人たちがいます。婦人たちの中には、悪霊を追い出してもらい、 また、病を癒してもらった婦人たちもいました。七つの悪霊を追い出してもらった マグダラのマリアもその一人であります。婦人たちは、 イエスからいただいた恵みに応えるため 彼女らが出来る 奉仕を自主的に見出し、 イエスの一行の宣教の業に仕えていたのです。 イエスの周りには、 男性と女性がそれぞれの働きを担って神の国 の福音宣教に仕える一団の人々の群れが形成されていました。 彼らは、 主イエスの十字架と復活、 聖霊降臨を通して、初代教会を構成する人々であります。 男女の 別なく、主イエスの恵みにより、神の国の奉仕へと招かれた人々は、新しい神の民を形成し、全地の人々に福音を宣べ伝える神の使者として 聖霊の注ぎにより、派遣されていきます。その源は、イエスと共に神の国の福音を宣べ伝える働きを担った一団の男女の群れにあります。
イエスにおいて開始された神の国の宣教は、イエスの選びと召しにあずかった人々。また、恵みをいただいて恵みに応答する生活を為した人々が、それぞれの力を結集して行われていたのを知ることが出来ます。ここから学ぶことは、宣教は、神の選びと召しにあずかり、恵みをいただくすべての人の参加する業があるということであります。しかし、もちろん、これは神の恵みにより、感謝と喜びにおいて、また、光栄に覚えて自由に、自主的に応える働きへの参加であり、強制されるものではありません。
さて、イエスのたとえ話を見ましょう。
種まきの譬えであります。
種まきが種をまいて、その種が様々な場所に落ち、ほとんどの種は、生え育たたないけど、ある条件のもとに落ちた種だけは、生えて、育って、百倍の実を結んだというのです。この喩えを通して聞く人に、イエスは何を訴えているのでしょう。
その意味を問う弟子たちの質問から明らかになりました。それは、聞いた御言葉が奪われ、また、失われてしまわないようにしっかりと心のなかに守り、御言葉に従っていくなら、神の国の豊かな恵みをもたらすものであることを教えるものであります。
御言葉に聞き従うよリも、さまざまな世の心遣いで心を満たし、また世の欲を追い求めて御言葉を無視していくときには、御言葉は失われ、ひとの中で働かず、実を結ばず、消え去っていくのであります。神の御言葉は、人が何よりもそれをしっかりと心にとめ、優先して御言葉に従っていくとき、大きな祝福をもたらすものとなるのであります。御言葉を聞いて、御言葉に従う生活を建て、神の国の豊かな祝福にあずかるようにとの勧めであります。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 使徒行伝17章1~9節
説教題 「迫害の中を進む使徒たちの宣教」
ピリピで投獄 された後、解放された使徒たちは、 ピリピの兄弟たちに別れを告げ、 次の宣教地を求めて街道を 南西に進んでいきました。途中、アムピポロス、アポロニアの町々がありました。これらの町々では宣教がなされていません。ユダヤ人の会堂礼拝がなかったと推測されます。使徒たちが宣教の場として目指したのは、 ローマ 世界に広く 散在しているユダヤ人の会堂 礼拝であります。神のもとからから遣わされる救い主の約束のもとにあり、救い主を待望しているユダヤ人こそ、真っ先に約束の成就であるイエス・キリストの福音を受ける人々であったからです。その先には、ユダヤ人から異邦人へとひろがる救いの道が続きます。使徒パウロの特別の使命は、異邦人への宣教でありましたが、それを果たすため、パウロはまず同胞への宣教から始めています。異邦人中心の宣教の道をどのように神が導かれるかは、いまだ隠されていました。しかし、それはまもなく明らかになってきます。神のみ手は、人間の悪しき業をもご自身の救いのご計画のためにお用いになるのです。
さて、2つの街を通り越し、マケドニア州の首府でありあますテサロニケに入りました。そこには、多くのユダヤ人が住んでおり、複数の会堂礼拝の群がありました。使徒たちはしばらくそこに滞在して、会堂礼拝に参加し、イエスを通して成就された救いの約束について同胞に語りました。他の場所においてそうであったように、テサロニケでも、会堂礼拝には、多くのギリシャ人が参加していました。上流階級の婦人たちも多数いたとあります。ユダヤ人の中からも、イエスを救い主として受け入れ、使徒たちに従う人々が起こされましたが、とりわけ多数のギリシャ人が、貴婦人たちと共にイエスを受け入れ、使徒たちに従います。
しかしここでも、使徒たちの宣教を受け入れないユダヤ人たちが、町をぶらついている人たちを巻き込み暴動を起こしたため、使徒たちはテサロニケを離れざるを得なくされます。
使徒たちの宿泊の世話をしていたヤソン(ユダヤ名ヨシュア)は、使徒たちと共に反逆罪を犯しているとして、市当局に訴えられ。保釈金を支払わされたのでありますが、その間、使徒たちは兄弟たち(テサロニケの信徒仲間)の協力のもとに次の町、ベレヤへと移っていきました。テサロニケの集会は、その後、ユダヤ人や町の人々からの迫害を、イエスのために耐え忍んで、信仰に堅く立ち、マケドニヤ、アカヤ地域の人々にその信仰が称賛され、良き証をたてたことが、使徒パウロの「第一テサロニケ人への手紙の1章」に記されています。イエスを受け入れ、使徒たちに従ったテサロニケの回心者の群れは、同胞の迫害によく耐えイエス・キリストの教会として堅く建てられたユダヤの諸教会に倣う者となったと、その信仰が称えられています。十字架の苦難は、新しい命の道の苦難であります。十字架を通してすべての人は罪と死の支配から開放され、神にある新しい命の支配を受け、自由の喜びの中へと移されるのです。ただ、すべての人の罪のため十字架にかかられ、死から甦られたイエスを信じる信仰によってイエスと一つに結び合わされことにより、人は、そのすべて罪を許され、復活の永遠の命を約束され、今ここから、その救いの命を生きることがゆるされるのです。
なんという大いなる恵みでしょう。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。
聖 書 使徒行伝17章16~17節
説 教 「真の神と偶像」
イエス・キリストを通して成就された神の救いが、イエスを信じるすべての人に値なしに、差別なく与えられるという良き知らせは、律法の義(律法を守ることによって、義とされること)を求めるユダヤ人には躓きとなり、使徒たちは、彼らによる迫害を受け、それを耐え忍びながら宣教の旅を続けていました。マケドニアの首都テサロニケから逃れた使徒パウロたち一行は、山のふもとにあるベレヤという町に入り、そこのユダヤ人の会堂で、聖書(旧約聖書)の予言を引用しつつ、神のみ旨により苦難を受け、すべての人の救い主になられたイエスについて宣べ伝え、その救いへと彼らを招きました。
ベレヤのユダヤ人は、素直な人々で使徒たちの宣教の言葉を受け入れ、日々聖書を調べ、多くの人が信じる者になりました。その中には、共に礼拝を守っていたギリシャ人も多く、上流階級の貴婦人たちもありました。しかし、ベレヤの町にもテサロニケからの妨害する者がやってきました。そこで、身の危険があったパウロは、兄弟たちの計らいでベレヤから逃れ、アテネまで行きました。そこで、シラスやテモテと落ち合う時を待つことにしました。パウロは、アテネからテサロニケの集会へテモテをつかわし、集会の様子を報告させています。テサロニケの集会は、ユダヤ人や同国人の迫害によく耐えぬき、信仰に堅く立っていて周辺の人々によい証をたてていました。その報告は、パウロに喜びをもたらし、主イエスにある一つの戦いの中で、互いに結び合わされていることの感謝になりました。
さて、シラスとテモテの到着をアテネで待っていたパウロが、街中に見たものは、多くの偶像の祭壇でありました。生ける、唯一の、真の、造り主である神こそ礼拝すべき人々が、自分の手で刻んだり、作ったり、して様々な偶像を礼拝していることに、パウロの心は義憤に満たされました。パウロは、早速、まずユダヤ人の会堂礼拝に出かけ、
イエスを通してなされた神の救いについて論じ、イエスの救いへと彼らを招きました。彼らの反応について記されていません。
それからさらに、町の広場で様々な人々を相手にイエスの救いを述べ伝えました。聴衆には、ストア派やエピクロス派の哲学者たちがあり、アテネに滞在している旅の者があり、耳新しいことを聞くことが、日々の楽しみになっている人々がありと、さまざまでありました。
パウロは、町中で見た「知られない神」という祭壇のことを話の糸口にして彼らに語りかけました。その内容は、すべてのものの(万能)創造者である神についてであり、すべての人間は、その神から出ていること、創造者である神こそが礼拝されるべき方であること、そして、人間が人間の技巧や、空想で、金や銀や石などに神の像を彫り付け、それらを礼拝することは神に対する罪であり、これまでは見過ごされてきたが、いまや、それらの罪を悔い改め、生ける造り主である神に立ち返り、真の礼拝をしなければならない時であること。
すべての人の救い主として、生ける神の下から来られたイエス・キリストのこと。
その十字架の死におけるすべての人の罪を洗い清め、そして死人の中から甦り、すべてに人間の裁き主としてイエスが神の右にお就きになったこと。
そのお方を信じることの中にすべての人の救いがあることをパウロは熱心に語りかけ、聴衆をイエスの救いへと招いたのです。
あざけりつつさる者もあり、また関心の失う者があり、宣教の成果は多くありませんでしたが、裁判所の裁判官であったデオシヌオとダマリスという女性の同心があったことが成果として記されています。
栄光神にあり!