2月説教要旨
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
2月説教要旨
聖 書 出エジプト記12章21~32節
説教題 「救いの御業を記念する」
イスラエルの人々をエジプトの苦役から救い出すために、神の命を受けてモーセとアロンによるエジプト王との交渉は続いていました。神からの要請に応じないエジプトに対して多くの災が下され、神のご命令への服従が繰り返し求められましたが、バロは、心をかたくなにして従いませんでした。これにより、全エジプトは神の決定的な恐るべき御業を受けることになったのです。神からの死の使いが遣わされて、すべてのエジプトの家の長子が死ぬという恐るべき出来事です。その時、エジプトに住んでいたイスラエルの人々の家々は、その死の使いが通り過ぎて、災が及ばないようにとの配慮が行なわれました。
神による配慮とは、イスラエルの人々が、家の入り口の柱や鴨居に子羊の血を塗ることであります。その血は、死の使いが通る時、通り過ごす目印となりました。
こうして、死の使いは、エジプト人の家にのみ入り、すべてのエジプト人の家には長子の死を悼む悲しい叫びが起こりました。エジプトの王宮はついに服従したのです。彼らはさらなる災を恐れて、イスラエル人を追い出すようにして開放しました。
イスラエルの人々は、急いでエジプトを出たその時の出来事を記念する記念の食事を儀式化し、永久にそれを守り、その子供たちにその出来事について語り継ぎ、継承することを命じられました。各家庭で、一頭の子羊を屠り、その血を家の入り口に塗り、肉は焼いたり煮たりして夜のうちにみな食べます。また、急いでエジプトを出たことを表すために、種入れぬパンと苦しみの象徴である苦菜も一緒に食べます。
イエス・キリストの民である新しい神の民は、十字架におかかりになり、すべての人を死の滅びから救い出してくださったイエスの救いの出来事を記念する食事として、聖晩餐を守っています。聖晩餐は、罪のゆるしの契約の食事であり、永遠の命を養う食事でもあります。イスラエルの生存の根拠が過ぎ越しの祭で示されているように、イエス・キリストの民の根拠が聖晩餐において示されています。キリストの教会も神から生まれ、神に向かって生きている人々であることが告白されているのです。
神は全地の人々の主なる神として、その民を通して生けるご自身を現し続けておられます。すべての人は、神の救いの恵みに預かり、神から生き、神の備えられる永遠の栄光の命に向かって希望の中を歩むことへと招かれています。
神の御名が、とこしえにたたえられますように。
聖 書 出エジプト記13章17~21節
説教題 「民を先導する神の臨在」
神の大いなる 御業によって、イスラエルの人々はエジプトの地を去り、父祖たちに約束されたカナンの地を目指して旅立ちました。 先頭に立たれるのは神であります。 神は、昼は雲の柱の中で、 夜は火の柱の中でその臨在を示され、 イスラエルの旅を導き、 守られます。
イスラエルの人々が エジプトを出た時、 モーセは、 ヨセフの遺骸を携えていました。 ヨセフが死に臨んで、神は必ず イスラエルの人々を顧み、 約束の地、カナンに導き 上ってくださる。その時には自分の遺骸を 携え上るように 約束させていたからです。 アブラハム、イサク、 ヤコブへと受け継がれた神の約束は、 今その子孫たちの エジプトの奴隷からの救出という出来事を通して実現へと向かっています。
さて、 エジプトの地を出ましたけれど、 イスラエルはまだエジプトの力の及ぶ範囲の中にいます。 カナン への近道である地中海沿いの道は、 ところどころに エジプトの国境警備隊が駐屯しており、また、 沿岸平野にある堅固な町々の住民との衝突の危険があったため、 神は、荒野を通る商隊の道に イスラエルを導かれました。 しかし、 やはりなお、 エジプトの力の及ぶ範囲でありました。 神の導きとを守りのもとで、 イスラエルは昼も夜も 前に進みましたが、 その頃、パロの宮廷では、イスラエルの民を去らせたことを後悔し、 彼らを エジプトの地に連れ戻そうとする行動が起こされていたのです。 ただちに パロの指揮する 戦車隊が出発し、 イスラエルの後を追いました、 エジプトの戦車隊がイスラエルの民に追いついたのは、 バアルゼボンというところの海の傍らで、 イスラエルが宿営していた時です。前には海 、 後ろには エジプトの戦車隊 という 袋小路の中で、 イスラエルの民は恐怖のあまり 叫んでモーセを責め、 エジプトを出てきたことを悔やみました。 その時、 モーセは民に落ち着くよう 命じ、神が彼らのために戦い、 もはや 二度とイスラエルの民が、エジプト人を見ることのないようにされる、 それゆえ、 しっかりと立って彼らのための 神の戦いを見ることを指示したのです。 神は、イスラエルの人々の前から後ろに回り、 エジプトの戦車隊とイスラエルの部隊が近づくことのないよう守られ、 海の水を分け、 真ん中に乾いた道を造られ、 イスラエルを通らせられました。 そして、後を追ってきた エジプトの戦車隊上には波が戻り、彼らは残らず溺れ死んでしまったのです。
こうして、イスラエルは今や、 エジプトの力から完全に開放され、彼らの旅を進めることができるようになりました。 この救いの出来事は 礼拝祭儀の中で、繰り返し 神の勝利として歌われ、 語り告げられております。
神は、 エジプトの奴隷からイスラエルをあがない出し、 ご自身の民として彼らと契約を結び、神の奉仕者として 聖別されます。 イスラエルが 神の民としての特権の中にあるのは、ただ神の憐れみにより、恵みによるものであります。
イエス・キリストの民が、新しい神の民としての身分を与えられているのも、ただ、神の憐れみによるものであり、 恵みによるものであります。 神奉仕のための身分であります。 全地の人々のための執り成しの務めを果たすものとして神が共におられ、その働きを用いられるのです。
聖 書 ペテロ第一の手紙1章1~7節
説教題 「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」
この手紙は、苦難の中にある教会を励ますために書かれた手紙であります。
手紙の受取人は、ローマ帝国の小アジアと呼ばれた地域の各州に散在しているキリスト者であります。現在のトルコの国の領域です。
キリスト者は、これらの地域に離散し、寄留している人々として示されています。この言葉は、もともと本国を離れ、各地に離散しているユダヤの人々を表す言葉ですが、ここでは、真の故郷である天のみ国に移るまでの間、地上に滞在し、寄留しているキリスト者の状態を意味します。キリスト者の生活は、天の故郷を目指して旅をしている途上にあります。その途上には、さまざまな試練があり、それを耐え忍ばなければなりません。試練の中で、いかに身を処するべきかについて、導きが与えられます。
キリスト者のために「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」。すなわち、終わりの時に現れる救いが、神により、天にたくわえられているとあります。また、それを相続するまでキリスト者は、信仰により神の御力に守られているとあります。従って、その約束と希望に立つならば、いかなる試練もキリスト者は、喜んで耐えることが出来るのです。
かの地のキリスト者は、異教徒の間で無知による様々な中傷を受けながら信仰生活をしていました。それゆえ、彼らはその救いの恵みと根拠と目標に目を向け、そこから目をそらさないように配慮されていることが見て取れます。
キリスト者は神の予知により選ばれて、イエス・キリストを信じ、従い、イエスの十字架の血による罪のあがないを受け、聖霊のきよめにあずかっているのであります。そして、その救いはじめてくださった神は、救いの完成の日まで、その御力でキリスト者を守ってくださるのです。この信仰に生きる時、キリスト者は、試練の中でも喜ぶ事が出来ます。
人々からの中傷の中で、キリスト者が、イエス・キリストにある善い行いの生活をすること、そうそうすることで人々の中傷を封じることが出来、また、中傷している人々に救いの日が訪れる時、神を讃美することになり誉を受けることになります。キリスト者は、神の聖に習うことで、悪に勝つ道を自己の道とすることを求められつつ、神の救いの証言者として、その務めを果たせることも示されています。
聖 書 使徒行伝15章1~11節
説教題 「教えの一致を守る使徒会議」
異邦人が多数を占めるアンティオケ教会に、エルサレムからある人々が下って来て、教会に伝えられている福音の真理に反する主張をして、パウロとバルナバとの間に激しい論争が起こりました。彼らは、異邦人キリスト者も、モーセの慣例に従って割礼を受けなければ救われないと主張したのです。彼らはエルサレムから来た人々であるというので、その主張は影響力を持っていたのでしょう。エルサレムに端を発しているこの問題を解決するために、パウロとバルナバ、テトスがアンティオケ教会を代表してエルサレムにのぼり、使徒たちや教会の指導者たちと協議をして全教会的に解決することになりました。エルサレムの指導者たちの中には、アンティオケにきた人々と同じ主張をするパリサイ派からの入信者たちがいました。使徒ペテロは、指導者たちに、彼らに知られているペテロの異邦人伝道における神の救いの出来事を思い起こさせました。(10章において、ローマの百卒長コルネリオの庭の集会に招かれ、ペテロが福音を語ったとき、それを聞いていた聴衆に聖霊が下った出来事)そして、神を敬い義を行う者を、神はどの国民でも分け隔てなく受け入れてくださるという事実を示しました。
割礼はあってもなくても問題はないのであります。
問題は、イエス・キリストにおいて神が備えて下さった救いの恵みを、信仰において受け入れ、イエスに従う者となるか否かであります。異邦人は異邦人のままで受け入れ、救いの恵みを注がれた神に、人がどうして異を唱えることが出来ましょうか。。
ペテロの証言の前で人々が沈黙した時、パウロとバルナバは、彼らを通して神が異邦人の間で行われた数々のしるしと奇跡を説明しました。ヤコブも旧約の予言を引用して、異邦人が神のもとに共に集められることは、神により初めから知らされているとの見解を示し、異邦人を異邦人のまま神の民の中に受け入れるべき事を勧めました。ユダヤ人と異邦人からなる全教会的結論として、神の救いの御業の現れに従い、また、神の予言に証しされてユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで、イエス・キリストに対する信仰において救いに入れられ、ひとつの聖なる神のと民なることを認めるものとなったのです。こうして、問題は解決され、平和が取り戻されました。福音の真理からそれることのないよう、また、そらされることのないよう常に福音の真理に注意を払うことが必要であります。