すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書6章27~33節
説教題 「敵を愛する愛」
神の国を与えられ、神の国に生きる者たちの振る舞いについて教えられています。それは、この世の在り方では異なるものであります。この世との在り方では、お互いに利益を分け合う形で人間関係が造られます。親切にしてくれる人に、親切を返す。愛してくれる人を愛する。祝福する人を祝福するなどです。しかし、神の国、神が主(王)として治められる国では、神のご本性が、神のご支配によって生きる人間の振る舞いの模範となるのです。神のご本性はイエス・キリストにおいて現れています。
イエスは、ご自分に敵対する者たちやご自分をのろう者、嘲笑する者、打ちたたく者をも愛し、彼らに敵対せず、呪わず、憎まず、彼らのために神に執り成し、彼らの益(罪の赦しの恵み)を神に求めたのです。それが、神の御心に従がう救い主としてのイエスの振る舞いでありました。神は、すべての罪ある者、ご自分に敵対する者を、イエス・キリストを通して愛されたのです。神の愛は、すべての人間を包む愛です。人が、神の愛に生きようとするのであれば、自分を愛する者を愛を超えて超えて、自分を憎んだり、恨んだり、のろったり、敵対する人をも愛する愛へと向かわなければなりません。ただし、強制されて、自らの意思に反してするそうするわけではありません。
神の国に生きる信仰者が、神の愛を受けて神に感謝し、神をあがめ、神の栄光を表すことを喜びとするところで実現すべき愛の振る舞いです。神の永遠の変わることのない愛こそは、神とわたしたち、わたしたち一人一人の人間同士を堅く結び合わせる帯であります。
わたしたちは、平和を求めてやみません。平和の基は、とこしえの愛なのであります。救い主として、わたしたちの中に平和を住まわせるために来て下さり、平和の基である愛を注ぎ込んで下さったイエス・キリストを心の中心にお迎えし、この主において生きることこそが真の平和への道なのであります。この道の上をひたすら歩んでいけますように、この平和を宣べ伝えることを喜びとする者でありますように。
栄光とこしえに神にありますように。
聖 書 出エジプト記14章5~14節
説教題 「あなたがたは恐てはならない」
イスラエルを、 約束の地カナンに導き 入れようとする 神のご計画により、 モーセに先導されて、イスラエルは、神の御力による計らいにより 意気揚々と、エジプトの地を出ました。エジプト に対する神の裁きの御業に強いられて、王と 宮廷の人々は、イスラエルの民が去ることを許したのであります。 しかし、 エジプト 王が、 また、その心を頑なにして神に逆らい、 心変わりしてイスラエルの後を追ってくるであろうことを神は予測しておられました。そして、その時こそ、 エジプトの力から完全にイスラエルを解放することを意図され、あえて イスラエルを危機に陥らせる 策を モーセに命じておられます。
それは、イスラエルの人々の宿営場所を海の傍らにしたことであります。 前方に海があると後方から追ってくるエジプトの軍隊から逃れようがありません。 イスラエルの人々は絶望の叫びを上げてモーセと神への信頼を失い、 逆らう でありましょう。 しかし、 エジプトの力を徹底的にイスラエルの上から取り除くために、神があえてそれを許されたことを、 聖書は告げています。 神の救いのご計画が その民に隠されていて、後からわかるようになることがあるのです。信仰を堅く保つことが求められます。
エジプト王の軍隊がイスラエルの人々の宿営地 に迫ってきた時、 予測された通り民はモーセに食って掛かり、「 エジプトに墓がないので、 荒野で死なせるために、私たちを携え出したのか」と、なじり、怒鳴り、パニックになり、不平不満をぶつけました。その逆上している民に対してモーセは冷静にきっぱりと語りました。
「あなたがたはおそれてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いをみなさい。きょう、あなたがたはエジプト人を見るが、もはや永久に、二度と彼らをみないであろう。主があなたがたのたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
神はエジプト軍に対するご自分の戦いをモーセに告げ、モーセに指示を与え、イスラエル人のために海に乾いた道を造り、その道を進んで対岸にわたらせました。その後を追ってエジプト軍が海の中の道に入ってきましたが、その時 その上に、神が波を返したため、エジプトの軍隊はことごとく波にのまれて消えたのです。もはや、イスラエルがエジプトの力に拘束されることはありません。
イスラエルをエジプトから救い出す神の戦いは勝利を得ました。イスラエルは、神のご計画に従ってモーセに導かれ、神の民として訓練を受けつつ、約束の地へ向かう旅が進められていきます。
神がイスラエルの神となり、イスラエルが神の民となることが成就されるために、また、成就されつつ、神に召し出されたイスラエルは、神のご支配を受けつつ、神のもとに歩んでいきます。
キリスト・イエスの民であるキリスト者は、キリスト・イエスの神がキリスト者と共にあり、キリスト者が神と共にある恵みを受けつつ、地上の旅を、終わりの救いの完成の日を目指して進んでいます。
聖 書 第1ペテロへの手紙1章13~21節
説教題 「心の腰に帯を締める」
キリスト者の信仰生活は、十字架の死から復活して神の右に昇られた主イエス・キリストの、天からの現れを待ち望んでいくものであります。それゆえ、キリスト者は、来たりつつある 主イエスを、お迎えする備えを怠ってはならないのです。 主イエスが、天から現れる時には、キリスト者もまた、キリストの栄光 の形に変えられ、 御国を相続する救いの完成の中へと入れられるのです。
キリスト者はその時を目指して、 イエスにある罪のあがないの恵みが与えられ、 信仰により、神の守りの中に置かれています。 それゆえ、その事をしっかり 自覚して、目標から目を離すことなく、 恵みにふさわしい生活をしていかなければなりません。 先祖伝来の希望も、目標もない空疎な生活、 また、自己の欲情に従う 生活は、主 イエスの恵みによって終わらせられたのです。
主イエスの恵みを受け、神の国を相続するにふさわしい者とされた者たちの生活が、「心の腰に帯を締める」生活として示されています。 神に対して無知であった時代の生活から、神を知り、神に従い、神の聖に習う 生活への転換を自覚することが求められています。
自覚的に、もはや自分の欲情に従う 生活は後にしなければなりません。 神に清められた者たち として、 神の聖がキリスト者の生活を支配するよう、 神に自らを捧げる生活へと移されているのです。 神と一つになる生活をしっかりと自覚的に励むことが、「心の腰に帯を締める」生活で示されています。
神に属するものが、物であれ、 動物であれ、 人間であれ、 聖なる者とされています。 キリスト者は、キリスト・ イエスのあがないの恵みにより、罪と死の中から救い出され、 キリストに属するものとして、神に属するものであります。 すなわち、 聖なる者たちなのであります。 この故に、神の聖にならって聖と なることが当然のこととされています。
神の喜ばれる 聖なるものとしての生活を励み、主イエスの 天からの現れの日を待ち望んで、神の栄光を讃える日々を歩んでいきましょう。
聖 書 イザヤ書53章1~12節
説教題 「すべての人の罪をとりなす方」
イザヤ書53章は、すべての人の罪を負い、十字架の死を忍ばれたイエス・キリストの出来事をまざまざと思い起こさせます。イエスはユダヤ人により、ローマの総督ピラトに訴えられ、ピラトの審問を受けたのですが、ピラトはイエスに罪を見出すことができませんでした。ピラトは、イエスが罪のないお方であることを明言しつつ、ユダヤ人へのおもねりにより、イエスを十字架刑へと引き渡しました。
ユダヤの最高法院においても、偽りの証人が立てられ、イエスは神を冒涜する罪を着せられ、死に当たる者とされました。そして、死刑を執行する権限のなかったユダヤ人が、イエスの死刑を求めて訴えたローマの総督ピラトの法廷において、不義の裁判が行われ、罪なきイエスが、十字架の処刑へと引き渡されたのであります。
イエスの死刑を要求し、その処刑に立ち会った人々は、イエスを十字架の死に値するものとして非難し、あざけり、罵り、いばらの冠をかぶせ、つばきして徹底的にイエスを侮蔑しました。その姿に見るべきものはありませんでした。イエスは、自らの罪により神に打たれ、苦しめられ、呪いの死を死ぬのであると、人々は思ったのです。人々は、自らがいかに罪深いものであるかに気づきませんでした。
ゆえなく苦しめられ、呪いの死に渡されたイエスは、黙々とそれを受け入れ、ただ、神に身を委ねておられました。そして、ご自分の十字架の死の意義を、神から示されることをひたすらに待ち望んでおられたのです。マルコ福音書15章34節に「我が神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と神に向かって叫ばれたイエスのお言葉が記されて記されています。また、ルカによる福音書23章46節には、「父よ、わたしの霊をみ手に預けます」との祈りも記されています。
人々が敵意や妬みにかられて、イエスを、神を冒涜するもの断罪し、また、ローマへの反乱を企てている者としてローマの総督に告訴し、十字架の刑を執行させていく罪の業が進められていく中、その苦難を、イエスは早くからご自分の定めとして受け入れておられました。そして、ご自分の苦難を通して神のみ旨が実現するのを待ち望んでおられたのです。それは、イエスのゲッセマネの園の祈りの中で確認することができます。マルコの福音書14章36節には、「しかし、わたしの思いではなく、御心のままになさってください」と祈られますが、マタイ福音書にも繰り返し「あなたのみ心が、行われますように」との祈りが記されています。今開いているイザヤ書にも、僕の苦難が神から定められたものであると書いてあります。そして、ここにはイエスがその苦難の意義を知ろうと切望された苦難の意義がはっきりと記されています。罪ある者たちの罪を負い、彼らの罪を執り成し、神のみ前に彼らに平安を得させるため、神の僕がその苦難を通して、彼らの罪のあがないとなられたのである。
苦難の僕による神の恵みにあずかった人々は、彼らの間違っていた思いが正され、その僕を通して与えられた神の恵みを告白讃美する者となっています。
神の永遠のご計画により、わたしたちすべての者を罪から救うために世にくだり、罪のあがないを成し遂げて下さったイエスの恵みを新たに覚え、神のみ前に義とされて生きる喜びを感謝しながら、神に向って神讃美の日々を歩んでまいりましょう。
復活祭(イースター)
聖 書 コロサイ人への手紙3章1~4節
説教題 「新しい義の命を与える方」
イエスの十字架の死と復活の出来事は、わたしたちに大いなる喜びと希望をもたらしました。その喜びと希望を改めて聖書から聞き、復活節の恵みを味わってまいりましょう。
コロサイ人への手紙3章1節には、「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい」と語ります。これは、イエスの十字架の死において神の怒りの裁きにより死に渡されたのは、義なるイエスではなく、真の罪人であったわたしたちであったことを示しています。神は、滅びの死を受けることがないように義なるイエスをわたしたちの罪のあがないの捧げものとされたのです。そして、わたしたちの上から罪を取り除き、わたしたちと和解してくださった御業が、イエス・キリストの十字架の死と葬りであります。
しかし、イエスは、葬りから三日目によみがえられました。死の中からすべての人のための、新しい義の命を起こしてくださったのであります。イエスはこの甦りの命に置いて、天の神の右に上がられたのです。
神の右に上られた復活のイエスの命の中に、イエスの十字架の死によって罪を取り除かれた者たちの命が隠されていると言われています。その命は、義とされている命であり、朽ちることのない永遠の命であり、神と共にある命であります。そしてそれは、キリストが栄光のうちに天から現れる時に、信じて待ち望む者たちに与えられます。
今、ここにおいて、義の永遠の命は、信じる者たちが信仰において生きる命であります。イエスの十字架の死による罪のあがないと、復活のイエスを信じるものは、すでにこのイエスの復活の義の命の中へと移されており、その栄光の現れる日に向って生きる者たであります。従って、その大いなる恵みを待ち望む者たちは、それにふさわしく、聖霊の導きにより、義の命の支配のもとで、神に喜ばれる生活を立てることが求められています。 父、御子、御霊の神に栄光とこしえにありますように