すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 詩編146篇1~14節
説教題 「主は恵み深く憐れみに満つ」
神はその民に対して、大いなる御力をもって ご自身を現わしてくださり、 民を救い、導き、 憐れんで来てくださいました。 その大いなることは 測りがたいものであり、 その民にとって 日ごとに、世々限りなく 讃美されるべき 大いなる方であることが、告白されています。また、 神はその約束 において真実なるお方であることも知らされました。
神の民は神のご支配のもとで、倒れんとしたとき支えられ、かがんでしまった時立たされ、神の憐みの豊かさ、恵みといつくしみの深さを知る者となりました。神の恵みといつくしみ深さは造られたすべての者の上にあると告げられます。神はその時々御手を開き、かれらにその必要な食物をお与えになります。
恵みといつくしみ、憐れみに満ちた栄光ある神のご支配は、その恵みを受けた者により、世々にわたってすべての人の子に語り告げられるでしょう。栄光ある神のご支配こそとこしえに続く支配であります。
さて、わたしたちは、クリスマスの祝いから新年に向かってきました。その事は重要な意味を持ちます。クリスマスという出来事において、わたしたちは、わたしたちの存在の大いなる転換と受けているからです。クリスマスは、わたしたちの造り主である神から、わたしたち一人一人に救い主イエス・キリストが遣わされた出来事を記念するお祝いであります。
神なしに生きていたわたしが、イエス・キリストを通して父なる神へと帰る道、恵みの道を備えられたのです。父なる神とわたしたちの間を隔てていたわたしたちのすべての罪を、イエス・キリストは十字架の死によって取り除いてくださいました。それにより、わたしたちは神の子の身分を受けられる者となりました。すなわち、罪のゆるしの義を与えられ、永遠の命へと入れられ、神が共にいる共にいる者となったのです。大いなる転換であります。いまや、わたしたちは、世の終わりまで神が共にいて下さり、生きている時も死ぬるときも、永遠の神との生ける交わりへと結び合わされたのです。神が主として、わたしたちの神としてわたしたちを背負ってくださる恵みのもとに置かれたのです。神とキリストにある命を生きること、新しく造られた者として生きることが、わたしたちのものとなったのです。
「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」と、 イエスは約束されました。
大いなる神の、大いなる救いの恵みを感謝します。
全地に栄光の神のみ名と救いの恵みが、世々にわたって告げ知らされますように。
聖 書 ルカによる福音書6章20~21節
説教題 「神の国は貴方がたのものである」
イエスは、御自身のもとに来て教えを受け、御業にあずかる人々に、「神の国はあなたがたのものである」と、宣言されました。これは、神の国を与える権能がイエスにあるとことを宣言しているのです。
イエスは神のみもとから来て、 全ての人を 罪と死の力から救い出し、 義といのちを与える 救い主としての御業をお始めになりました。神に敵対する悪しき霊の追放、病人の癒やし、罪にとらわれている人の罪の許し、慰めに満ちた権威ある教えなどがイエスによってなされました。その中で、イエスは御自身の持つ権威を明らかにされたのです。こうしたイエスの権威の表れを受けて、イエスから神の憐れみの恵みを受けようとイエスのもとに来た人々に、イエスは、「神の国は、貴方がたのものである」と宣言されているのです。これは、将来的には、
イエス・キリストの教会の成員になる人々でもあります。彼らは、この世的には貧しい者たちであり、飢えているものであり、抑圧されている人々であり、絶望的な悲しみにある者であります。
彼らは幸せを保証する この世のものを持っていません。 富や、 権力や、 権勢を持っていません。 しかし、 神の憐れみにより、神によって保証される 幸いを、彼らは豊かに持つことが許されます。 ひたすらに神により頼み、 ただ神の恵みによって生きようとする彼らとともに神がいてくださいます。
神は、イエス・キリストによる罪のあがないを通して、彼らの神となり、彼らを 神の国 の相続者としてお定めになります。 このことにより、彼らは、神にあってはすべてを持つ神の子としての恵みの中を生きることが許されるのです。 この世の朽ちていき、過ぎていく 富や権威、権勢ではなく、 朽ちることのない、過ぎ行くことのない神の国の富が、彼らのものとして 約束されています。
神の赦しと 恵み、 憐れみ、 彼らから取り去られることのない神の国の富において、彼らは満ち足りるものとされます。 神にある平安、喜び、 希望は、彼らの最上の富であります。 この富は、ただ キリストからのみ受けることのできる 富であります。 神の国の永遠の王であられるイエス・キリストのご支配のもとで、 その民として生きることを許されている者は幸いであります。 主イエスのみ名がとこしえに讃美されますように。
聖 書 ルカによる福音書6章22:23節
説教題 「苦難の中の幸い」
迫害を受ける 信仰者に向けて語られた、 幸いを約束するイエス のみ言葉であります。
神によって、 救いの約束の成就者として遣わされたイエスを受け入れ、 イエスを救い主と信じて 従った人々は、イエスを受け入れない人々から迫害を受けました。
エルサレムにおける迫害は、イエスを十字架の死に引き渡した 当局の人々、 ユダヤの指導者たちからの迫害であります。 さらに、また、 律法遵守や割礼の習慣を救いのための絶対必要条件とみなす人々も、 イエスの群れを迫害するようになりました。 それは、イエスの群れ ( キリスト者)が、全ての人は、 ただイエスを信じる 信仰において義とされること、 イエスこそが救い主であることを宣べ伝えたからであります。
イエスを信じる人々がローマ帝国の中に増え広がっていくにしたがって、皇帝礼拝をしないキリスト者は、皇帝からの迫害に会いました。ローマ帝国は、皇帝の上にある権威を認めず、皇帝を神として崇拝する祭儀を行いましたが、キリスト者は、万物の主なる神以外を神として崇拝することはできませんでした。このため、帝国の憎しみをを受け、迫害されたのです。
このようにみていきますと、キリスト者はいたるところで、世からの反発 や憎しみを受け、 世から出ている人々ではなく、神から出た人々であることが明らかになるのです。
この世は、その造り主である主なる神に敵対して、自らが神たろうとする罪の中にあります。 神の主権に服して、神の御心に従うべきところから 迷い 出てしまっているのです。
イエスによる罪の洗いを受け、神により義とされ、 罪の力からから解放された人々は、神を主と 崇める 自由を持つ者となります。彼らは神の側にあることにより、世から憎まれ、 敵対を受けるのであります。 キリスト者は、その持つ自由により、 神のための苦難を受け入れなければなりません。 それは、恵みを受けたものが引き受けるべき 苦難であり、神により 報われる 苦難であります。 それゆえ、「 喜びなさい」と勧められているのです。
信じるわたしたちすべての者のため、永遠の救いを勝ち取ってくださったキリスト・イエス、そのお方のための苦難は、わたしたちにとって喜ばしい苦難であります。わたしたちのために罪の呪いを引き受け、わたしたちを滅びの死の中から引き揚げて、御国の命の中に移してくださった主イエスの恵みは、わたしたちに苦難を喜んで引き受ける力を与えてくれます。 主にある命の喜びの中で、苦難を引き受ける者は幸いです。