すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書22章39~46節
説教題 「御心がなりますように」
受難週に向けて、イエスの御受難の出来事を新たに聞いてまいりましょう。
イエスは度々弟子たちに、エルサレムにおいて起こるであろうご自分の苦難の死と死か
らの甦りについて予告をされました。その予告の意味するところを弟子たちは理解でき ませんでしたが、予告が現実になった時、それは偶然の出来事ではなく、イエスが予知 され
ており、自らその苦難の死を死ぬことを引き受けておられたのだということを彼らは知
っ たのであります。イエスの死の意味するところは、弟子たちと共にした最後の晩餐
(新しい過ぎ越しの食事)において示されておりました。
ご自分の死をとおして新しい契約が彼らに与えられ、それを祝い、記念する食事とし
て、 最後の晩餐を与えられたのです。
この晩餐は、イエスにおいて神の国が完成される時まで、イエスの共同体(イエスの教
会)の中で守られるべき記念の祝宴(晩餐)として与えられています。
イエスは、全地の人々に対する神の永遠の救いのご計画を実現する救い主として、神の みもとから世に下られました。
イエスは、そのご人格と御業の権威を通して、神が共におられる神から来られた方であ ることをお示しになりました。全人類に対する神の永遠の救いは、この神から来られた
イエスの苦難の死、全人類のものである罪の呪いの死をご自分のものとして引き受け、 神から呪われ、捨てられるという恐るべき死を死ぬことにおいてのみ成就するのであり
ます。このイエスの死を通して、全人類の上から、罪の呪いの滅びの死が除かれ、命の
祝福が到来しました。全人類の祝福の基として定められたアブラハムの子孫こそイエス であられます。
「わたしの思いではなく、御心がなりますように」と、
神の御業のためにご自分を差し出したイエスの自己放棄において、
神は、全人類のための救いの恵みを創造してくださいました。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にあれかし!
聖 書 ルカによる福音書22章47~62節
説教題 「イエスを捕らえる人々の前で」
イエスは、苦しみに満ちた祈りの中で神の御意志を受け入れ、ご自分を死に引き渡す決断をされました。その間、目を覚まして祈っているようにと言われた弟子たちは眠りこけており、彼らに危機が近づいているのを全く予測することが出来ませんでした。危機に備える準備が全くできていません。そこへ、12弟子のひとりで、イエスを裏切ったユダに先導されて、大勢の人々が、イエスを捕らえるためにやってきたのです。彼らは民の指導者たちであり、ローマの兵卒であり、また、指導者たちから遣わされた人々であります。ユダは、自らが接吻をするその人こそイエスであると、彼らに伝えていました。人々がイエスに手をかけて捕らえようとしたその時になって、ようやく弟子たちは、イエスと彼らが危機の中にいることに気づいたのです。その時彼らにできたことは、二振りしか持っていない剣で、とっさに目の前の敵に切りつけることでした。それにより傷つけられたのは祭司長のしもべであり、その者は、右の耳を切り落とされてしまいました。イエスはすぐに弟子の暴力を止め、しもべの耳を癒してくださいました。それから、中心にいた祭司長や、宮守がしら、長老たちの魂胆を指摘しながら、彼らの時、すなわち闇の支配の時が許されていると告げ、彼らの手に自らを渡されるのであります。(彼らが思いのままに、彼らの悪しき業を為す)彼らの時は、神の御手の中にあり、それは、イエスの救い主としての御業を完成させるため、神が許しておられることを言明されました。祈りを通して、ご自身の身に起こるすべての事をイエスは掌握しておられ、それに立ち向かわれています。
しかし、イエスの警告を受けながら、祈ることが出来ていなかった弟子たちは、この危機に立ち向かうことが出来ず、イエス一人を残してその場から逃げてしまったのであります。イエスと共に獄にでも、死にまでもついてまいりますと言った勇ましい姿はどこにもありません。イエスの苦難は、預言者たちによって予言されてはいましたが、なお弟子たちの思いをはるかに超えた秘儀であり、彼らは対応できず、恐れのあまり、逃げてしまったのであります。しかし、聖書は、単なる逃亡だけではなく、イエスに最も近くあり、イエスに信頼され、弟子の先頭にいたペテロの恐ろしい裏切りについても語ります。ペテロは、3度も、自分はイエスと関わりがないと人々に言明したのです。イエスの逮捕が、弟子たちにとっていかに測りがたい恐れを引き起こしていたかを示すものであります。そして、そのことをイエスはご存じであられ、ことが起こる前に、イエスの許しの御心が弟子たちを包んでいました。イエスによって選ばれていた者たちは、逃亡や裏切りの中でもなお、イエスと結ばれており、イエスの守りの中にありました。やがて、復活のイエスにより、彼らはイエスの証人として立ち上がります。
聖 書 ルカによる福音書22章63節~71節
説教題 「イエスの真実」
夜の闇に紛れてイエスを捕らえた人々は、大祭司の邸宅へイエスを連行したとあります。 ユダヤの最高法院の審問が行われる前に、大祭司邸で予備的審問がなされたのです。その結論として、イエスは有罪とみなされ、監視のもとに置かれていました。監視人たちは、イエスを罪人として嘲弄し、むち打ち、からかい、あざけりの行為をしたことが記されています。
さて、夜が明けると議会の人々(長老、祭司長、律法学者からなる71名)が招集され、最高法院が開かれました。そこでの裁判が公正なものでないことはイエスにおいて予知されていたことであります。イエスに対する議会の人々の問いには、イエスご自身から神を冒涜する言葉を引き出そうとの思惑があります。イエスは、ご自身についての真実が、議会の人々により有罪の根拠とされることのないよう注意深くお答えになられました。彼らがイエスの言われることを信じないゆえに彼らにこたえることはできないと。そして、ご自身についての真実を予言者の予言の言葉(ダニエル書7章13~14節)によって示されました。「しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。
これは、彼らに「あなたは神の子であるのか」と問わせるためでもあり、彼らの問いを肯定し、イエス自身の口で、イエスを神の子と言わせるものであります。イエスが自らを「神の子」(メシア=救い主)であると主張したとの言質を取られないで、しかもご自身の真実を明らかにするものであり、議会の人々が完全にイエスの御支配を受けている顕れであります。
さて、議会の人々は、彼らの投げかけた問いを肯定したイエスを、神を冒涜するものとして有罪としたのであります。
イエスはその教えと御業において罪を認められないまま、最高法院において有罪を押し付けられ、さらに、異邦人へと(ローマ人の法廷へと)引き渡されていき、イエスの予言が現実のものとなっていきます。
神の御心に従って、人間の罪の暗黒の苦難を引き受けられ、闇の力と闘われるイエスの闘いの中に、その暗黒から人間を解放し、ご自身の光の中へと移そうとされる、神の忍耐、あわれみが輝き出ています。
人間が、自分たちの中から神を追い出し、自ら神の座に就こうと画策する間に、神は、人間の真の居場所であるご自身のもとへと、人間を回復する御業を進めておられるのです。
天の御座を降りて、卑しい人間のひとりとなられ、人間に連帯して、ご自分を与えて下さった神の御子・主イエス・キリストに栄光限りなくありますように。
聖 書 ルカによる福音書23章1~12節
説教題 「ローマ総督ピラトとイエス」
ユダヤの最高法院で、「神を冒涜する者」として、死罪の判断を下されたイエスを、群衆がローマ総督ピラトのもとへ連行しました。
当時、ユダヤ人には、犯罪人の死刑をする権限はなかったからであります。人々は、ローマ政府に反逆を企て、民衆を扇動している者であるとしてイエスをピラトに訴え出ました。ローマの法廷で、イエスを反逆罪で死罪と宣言させ、処刑させようとしたのであります。偽りの証人も用意されました。「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザル(ローマ皇帝)に納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、唱えていることを目撃しました」。この証言には、何一つイエスの言動において見出されるものはありません。イエスは、皇帝発行の硬貨を用いているユダヤ人に、貢(税金)を納めるべきとし、また、自らのメシアとしての真実を内輪の弟子たちのうちにとどめ、ご自身のすべての御業が完成するまで秘密にされていました。
人々の訴えにより、ピラトが、「あなたがユダヤ人の王であるか」とイエスに尋問した時、イエスは「そのとおりである」と答えられました。しかし、その答えを聞いても、ピラトはイエスに反逆罪を認めません。イエスの中に、この世的な王権を主張し、ローマに対して反抗する敵対的なしるしを何も見出さなかったのであります。罪のないイエスを、死罪へと追い込もうとしているのは、ユダヤ人の妬みのためであるとピラトは知っており、彼らの要求のまま、イエスの死に関わることを何とか避けようとするピラトの抵抗が見えます。イエスが、ガリラヤ人であることを聞いたピラトは、祭りのためエルサレムに滞在していたガリラヤの領主、ヘロデのもとにイエスを送り付け、裁かせようとしました。しかし、ヘロデは、イエスを愚弄して送り返してきたのです。ピラトはイエスの無罪性をますます確信し、祭りの時に、囚人の一人を解放する習わしを利用してイエスを放免しようとしました。しかし、群衆は納得せず、実際に暴動と殺人の罪でとらわれていたバラバという犯罪人を解放し、イエスを十字架につけるよう叫び続けたのであります。その声はついに勝って、ピラトは、イエスを彼らに引き渡し、その意のままに十字架の処刑場へと送ったのであります。
すべての人の罪の業がイエスの上に降りかかり、そして、すべての人の罪の業をイエスはその身に引き受け、負い通されます。イエスの御姿は、外見上、無力なる様に見え、無力なものとののしられます。しかし、いかなる敵対に対しても、敵意で返すことなく、すべての敵意、憎しみ、あざけり、愚弄を、ご自分のもとして負われ、最後に至るまで神に従う信仰には、救い主としての、神の僕の真の強さが現れています。イエスの無力なる姿の中に輝く神の愛、その愛が、すべての罪ある者に神の和解をもたらし、罪の死の中から、義の命が立ち上がります。御名に讃美あれ。
聖 書 ルカによる福音書23章13~25節
説教題 「イエスの十字架刑を求める叫び」
ユダヤ人の祭司長、役人、民衆によってローマの総督ピラトの法廷に訴えられたイエス。彼らは訴えの最初から、イエスをローマ人の手によって処刑させようと、ピラトに訴え出ていたのであり、様々に偽証しているのであります。ピラトは、しかし、イエスにおいて、彼らの言い立てるローマ政府への敵意や、反逆の意思を認めることが出来なかったので、イエスの無罪を宣言しましたが、イエスの無罪は、訴え出ているユダヤ人たちこそがよく知っているのであります。そこで、彼らは、何とかピラトを説得しようと、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土における民衆の扇動を言い立てましたが、それは、かえってピラトに良い口実を与え、ガリラヤ出身のイエスを、ガリラヤの領主ヘロデこそが裁くべきだとして、ヘロデのもとイエスを送りました。が、イエスの無罪を知っているヘロデは、イエスの奇跡を見たいという自らの望みがかなえられないのを知ると、イエスをあざけってから、ピラトのもとに送り返したのです。
再び、イエスを裁くことになったピラトは、イエスを無罪放免しようと手を尽くしますが、ユダヤ人の要求を退けることが出来ず、ついに、死刑を求める彼らの手にイエスを渡して、その思い通りにさせたのであります。
イエスの逮捕と、その裁判においてあらわになっているのは、イエスの罪ではなく、イエスを取り囲むすべての人の罪性であります。第一には、イエスの弟子たちの裏切りや逃亡、イエスを逮捕したユダヤ人指導者たちの罪なき者への殺意、偽りの裁判、支配者ローマの総督の自己保身のための法の正義の放棄、指導者に扇動されて、罪なき者の十字架刑を求め、自己の欲求を満足させようとする民衆、兵卒たちの横暴などなど。
ここには、神の独り子、聖にして義なるイエスに対するすべての人間の敵対とその行為が現れています。
すなわち、神に対する人間の敵対の本質、背き、不信仰、不信頼、不従順、侮りなどなど。これらこそが、真に裁かれるべきであり、その責めを負うべきものであります。そして、これらの人間の罪は、神のみ前で、まさに、死罪にあたるものであり、滅びの死にあたるものであります。
ここには、実際に罪ある者たちがその罪の責めを負うことを逃れ、死罪をまぬかれ、実際は罪のない方の上に、罪の責めが負わされ、死罪になっていくという(十字架につけられていく)ことが起こっています。ここにこそ、罪なきお方イエスの、十字架刑における呪いの死の秘密があります。
すべての人間の救い主として、すべての人間が神のみ前に救いを得、義の永遠の命を得るためには、人間の罪が取り除かれなければならなかったのであります。愛とあわれみに富む神は、すべての人間を罪の滅びから救うため、独り子イエスを、すべての人間の罪のあがないとして、世にお遣わしになり、救いの御業を成し遂げさせられたのであります。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にありますように。