すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 出エジプト記19章1~8節
説教題 「神の宝の民となる」
エジプトの奴隷の家から神によって救い出されたイスラエルの民は、そのすべての旅路を神によって守られつつ、神との出会いの場であるシナイ山のふもとに到着しました。そのイスラエルの人々にご自身を現し、彼らと契約を結び、御名を担う者として彼らを聖別しようと神の御心が示されます。
旅の指導者モーセが神の指示を仰ぐため山に登ると、すぐにモーセを呼ぶ神の声がかかり、イスラエルの人々に告げるべきことばが与えられたのです。モーセに告げられた神の言葉は次の通りでした。エジプトから彼らを救い出そうとしてエジプト人に行われた神のすべての
御業を、イスラエルの人々はしっかりと見た。そして、あたかもわしの翼に乗せれれて運ばれたかのように神の大いなる御力によってご自身のもとへと、導かれたことをみた。
それゆえ、イスラエルがまことに神の声に聞き従い、神との契約を守るならば、地のすべての民にまさって、イスラエルは神の宝の民となる。そして、神に対する祭司の国となり、聖なる国民として地のすべての国民から分けられ、神の御心に仕える者となるであろう。
申命記7章6~8節でも、「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の表のすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうちで、最も数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家からエジプト王パロの手からあがない出されたのである」と語られています。
イスラエルの選び、すなわち聖別は、ただ神の愛の中にその根拠を持つ。そして、その選びの目的は、全地の人々の祝福を創り出す神の御業に奉仕する民となることであります。
全地の人々のために神に奉仕する選びと聖別、そのような選びと聖別が、キリストの民である教会に対しても語られています。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗闇から響くべき光に招き入れられてくださった方の御業を、あなたがたが語り伝えるためである」(ペテロ第一の手紙1章9節)
神の救いの御業を受け、その御業の証言を使命として与えられている神の愛におけるj選びの民。イスラエルもイエスの教会も、神の救いの恵みを受けつつ、全地の人々のために神奉仕の務めを担っています。喜びと感謝の中で、主とその恵みをたたえつつ、主に使えるものは幸いであります。
栄光とこしえに神にありますように。
聖 書 ルカによる福音書7章11~23節
説教題 「死から命に移る」
異邦人である百卒長の僕が、イエスの御言葉によって癒される出来事が起こりました。それは、イエスのお言葉が権威を持っていることを示しています。イエスが語られると、その御言葉の通りのことが起きるのです。そのような大いなる権威を与えられているイエスに対して、人々はどう応答すべきか。ここにはイエスの出来事を見た人々へ、ふさわしい応答を求める神の求めがあると言えるでしょう。
イエスがご自身を現わして下さるままに、イエスを信じ、受け入れ、従がっていくことで、イエスとの交わりが与えられます。そして、それは、イエスを通してイエスを遣わされた父なる神との交わりにあずかることであり、神が恵みと憐みをもって顧みて下さる終わりの救いにあずかることであります。
さて、イエスは、弟子たちと大勢の群衆を従えて、ナインという町にやってきました。すると町の門のところで、大勢の町の人々と共に、一人息子の葬りをしようと墓地に向かっている婦人に出会ったのです。夫はすでに亡くなっており、死んだ息子は、彼女にとって頼りであるただ一人の家族でありました。彼女の悲しみは深く、その泣き崩れている姿にイエスは深く同情されました。
イエスは、彼女に声をかけられました。
「泣かないでいなさい」
イエスの語りかけは、この悲しみ中にある婦人を、その悲しみの淵から救う御心が示されている語りかけのお言葉であります。
「泣かないでいなさい。わたしがあなたの息子を死から生き返らせ、あなたの手に返しましょう。泣かないでいなさい」。
イエスは婦人に語りかけると同時に、死んだ若者の横たわる棺に手をかけ、死者に命じられました。
「若者よ、さあ、起きなさい」。
イエスの御言葉がかけられるや否や、死んでいた若者は、起き上がり、物を言いだしました。イエスの御言葉は、御言葉通りのことを起こしたのです。
イエスは、生き返った息子をその母にわたし、母の目から涙をぬぐい取ってくださいました。その出来事により、イエスは死者に対しても権威を持つお方であることを現されました。この出来事に立ち会った弟子たちと群衆は、イエスと神に対してふさわしく応答できたでしょうか。
16~17節にその答えが書いてあります。
「人々はみな恐れをいだき、『大預言者がわたしたちの間に現れた』。また、『神はその民を顧みて下さった』といって、神をほめたたえた」。
イエスの御業を見た人々はイエスを、「神の約束されている大預言者」、そして、「神の民を救う救い主」として遣わされいる方と告白しています。神から求められているふさわしい応答であります。
イエスの決定的な御業として、イエスは、人の命を罪と死の支配から救い出し、義と永遠の命の支配のもとへと移すため、すべての人の罪の清めのため十字架にかけられ、死んで葬られ、死人の中から甦られました。このかたのもとでは、人は皆、神のみ前にあるそのすべての罪を洗い清められ、永遠の救いの命を約束されます。信じるすべての人は、義と永遠の命を受けることが出来ます。イエスとイエスを遣わされた神を知ることが、わたしたちすべての者にとって救いの道を知ることになるのです。自分自身についての真実を知る道は、神とキリストとを知ることから来ます。
栄光とこしえに神にありますように。
2024年6月16日説教要旨
聖 書 ルカによる福音書7章36~50節
説教題 「多く許された者は多く愛される」
イエスが、あるパリサイ人から食事に招かれた時の出来事であります。
パリサイ人シモンの家に招かれ、その家で、イエスが食卓についておられることを聞いた1人の女性が、香油の入った石膏のツボを持ってシモンの家にやってきました。当時は客をもてなす家に、人々が自由に入ってくることができたとのことであります。
さて、 その女性の目的は、 イエスに対して感謝を表す接待をすることでした。彼女は、食卓についているイ エスの後ろから近づき、 泣きながらイエスの足もとに寄り、涙でイエスの足を濡らし、 自分の髪の毛でぬぐい、 その足に接吻し、香油を塗ったのであります。
パリサイ人とシモンが、イエスを食事に招いて 共に 食卓に着いた時、 通常は行われるはずの接待をしていませんでした。 足を洗う 清めの水も出してくれず、 頭に香油を塗ってもくれず、 挨拶の挨拶もしてくれず、 食卓についてもらっただけでありました。 このような 迎え方の中に、イエスに対するパリサイ人の評価が見えます。人々から教師として敬われ、また、予言者と見られていたイエスを食卓に招くことは、 パリサイ人にとって徳を積むことでありました。 しかし、人々がイエスを予言者と見て 敬っていたように、シモン も、イエスが真実に予言者である とみなしたのではないようであります。
パリサイ人シモンの家にやって来て、イエスの足に触れ、自分の涙でその汚れを洗い、髪の毛でふき、香油を塗ったその女性は、町の人々に娼婦として知られている罪の女性でした。イエスが、もし本当に予言者であるなら、そのような女性を自分に触れさせることはないだろうと、シモンは注視していました。そのシモンの注視の中、イエスは、その女性がしてくれることを静かに受け入れたのです。
シモンの心は、イエスに見ぬかれていました。イエスは、彼にたとえ話をしました。
ある金貸しが、借りた金を返せない二人の人を憐れんで、それぞれの借金を免除しました。一人は、500デナリ、もう一人は50デナリである。さて、この二人のうち、誰が金貸しを多く愛するだろうか。
パリサイ人シモンは、すぐに答えました。
「多く許された人です」。
その答えを聞いたイエスは、シモンを、イエスのため財と自らを捧げて接待した女性の行為に注目させました。彼女は多く許されていたので、多く愛したのである。彼女の行為は彼女が受けた恵みにふさわしいものである。彼女は、彼女の罪のすべてを神の前にさらし、そのすべての罪を許していただいたのである。どうして自らのすべてを捧げて神に対する愛の感謝を表し、お仕えしないでおれようか。
「シモン、あなたは少ししか愛しなかったので、少ししか許されていないのだ」。
人は、その罪の自覚にしたがって、神の恵みを知る。罪を自覚すればするほど、イエス・キリストにおける神の恵みの計り知れないことを知らされるのである。そして、それは同時に、自分自身の神に対する感謝と愛の応答が、いかに貧しいものであるかを知らされるのである。どれだけ感謝しても感謝しきれない罪のゆるしの負い目を、人は神に対して負っているのである。わたしたちが、自らを捧げて神に奉仕することは、神の赦しの恵みにふさわしいものなのである。
栄光とこしえに上にあるように
聖 書 使徒行伝16章16~24節
説 教 「占いの霊との対決」
使徒パウロたちのヨーロッパ最初の伝道において、マケドニアの大都市ピリピで、ユダヤ人の礼拝に参加していた異邦人女性の回心がありました。紫布の商人ルデヤであります。彼女は、福音に心を開き、その家の者たちとともに洗礼を受けたのであります。そして、ルデヤは、彼女の家を伝道の拠点として使徒たちに開放しました。ピリピにおける伝道の間、使徒たちはルゼアの家に滞在し、 そこからユダヤ人の礼拝場所を訪れて 福音を宣べ伝えていました。 ある日、彼らは 集会所に行く途中で、占いの霊につかれた女奴隷に会いました。 彼女は主人たちに、 占いによって多くの利益を得させていたのでした。 この占い師が、何日もパウロ たち の後ろについてきて、 道々「 この人たちは、 いと高き 神の僕たちで、あなた方に救いの道を伝える方々だ」と、叫ぶのです。 確かに この占い師の霊の叫びの内容は 正しいものではありましたが、彼女にとりついている霊の目的は、使徒たちに協力することではなく、使徒たちの正体をその霊が知っていることを知らせて、使徒たちを自らの支配下に置こうとの試みでありました。
この世の霊が、あるいはまた、神に敵対する悪しき霊、汚れた霊が、イエスによる神の支配に抵抗して叫ぶ例が福音書の中にたびたび出てきます。マルコ福音書5章には、汚れた霊につかれ、墓場をすみ家とする男とイエスとの出会いにおいて、汚れた霊がイエスに向かって叫んでいます。「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしと何のかかわりがありますか。わたしを苦しめないで下さい」。
神の霊、聖なる霊は、人間をあらゆる束縛から解き放して自由にし、神と隣人を自由に愛する力を与えますが、悪しき霊や汚れた霊、神に敵対しているこの世の霊は、人間を束縛し抑圧し、霊の思うままにし、人間の自由を失わせる支配を振るうのであります。
ご自身の創造の世界を、ご自身のものとして治め祝福をもたらすために、神の御子、主イエスがおいでになりました。このイエスのもとで、イエスに従い、神のご支配を受ける者は、すべての悪しき霊から開放され、本来の自分自身に立ち返り、神の子としての力を受けるのです。悪しき霊や、汚れた霊、世に働く諸霊からの開放は、人間が本来あるべきところへと立ち帰らせていただく象徴的な出来事であります。
イエスの宣教の中で、神のご支配が目に見えるものとされたように、使徒たちの宣教活動の中でも、神のご支配が目に見えるものとされています。生ける唯一の、真の創造者なる神こそが、すべてのものの真の支配者です。
栄光限りなく神にありますように。
聖 書 使徒行伝16章25~34節
説 教 「獄屋にのぞむ神の救い」
使徒 パウロとシラスは、占いの霊につかれた 女から 占いの霊を追放したため、 彼女の占いにより利益を得ていた主人たちの怒りを買いました。 彼らは、使徒達を偽りの罪で 法廷に告訴したのであります。
裁判に対して責任ある行政官( 二人)や、 按察官は、使徒たちへの 告訴を審理 することもなく、使徒たちを 罪人として 鞭打ちの刑に処し、 投獄しました。二人は、牢獄の最も奥の部屋に入れられ、足枷をはめられ、 厳重 な監視を受けたのであります。 彼らのからだは、傷だらけ、 血だらけであったでしょう。 無実の罪を着せられ、鞭打たれ、 屈辱を与えられ 投獄 されてきた使徒たちを、獄屋にとらえられていた全ての囚人たちが注目していました。
真夜中、 獄屋の中で使徒たちは神に祈り、神に向かって 讃美を 歌い始め、 囚人たちが その声に聞き入っていた時のことです。 突然 大地震が起こり、 獄の土台が揺れ動き、 戸ははたちまち 全部開いて、 囚人たちの鎖も解けてしまったのです。
獄吏は目を覚まし、飛んできました。獄の戸が全部開いています。獄の中は真っ暗で何も見えません。囚人たちは皆逃げ出したと思った獄吏は、自害しようと剣を抜きました。それを見てパウロが大きな声を上げ、「自害しないでください。我々はひとり残らず、ここにいる」と伝えました。獄吏は急いで明かりを手に入れ、獄の中に飛び込んで、パウロとシラスの前にひれ伏しました。使徒たちが囚人たちに影響力を発揮して、逃げないようにしたのだと、獄吏にはわかりました。彼らと共に聖なる方がおられると悟ったのです。そこで、急いで使徒たちを獄の外に連れ出し、救いに道を尋ねたのです。「先生がた、わたしは救われるために何をすべきでしょうjか」。使徒たちの答えは、大変単純なものでありました。「主イエスを信じなさい、そうしたらあなたもあなたの家族も救われます」。この勧めの言葉を読む今日の多くのキリスト者にも、希望を与えてくれる勧めの言葉であります。
すべての人の罪をあがなうため十字架にかかられ、死んで葬られ、死人の中から甦られたイエス・キリストの中に、すべての罪ある人間の救いが隠されているのです。それゆえ、救いを得るために人が為しうることは、この主イエスにより頼み、この主イエスを救い主と信じる信仰の告白のみであります。
使徒たちは、獄吏だけでなく、獄吏の家族も皆イエスの救いにあずかることが出来ることを伝えました。こうしてパウロとシラスは、ヨーロッパで最初に、ユダヤ人の礼拝してきた唯一の、生ける、真の神をまったく知らない異邦人への伝道を果たすことが出来たのです。
獄吏とその家族は共に使徒たちからイエスの救いについて聞き、イエスを信じる者となり、バプテスマを受け、そして信仰の喜びに包まれたのであります。
使徒たちの苦難は、異邦人へとイエスの救いの道が開かれて行っためぐみに満ちたものとなりました。神は、すべてのことを御手に治められ、ご自分の御業に仕えさせられます。
み名はほむべきかな。栄光とこしえに神にありますように。