すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 ルカによる福音書11章45~52節
説教題 「偽りと真実」
イエスは、民衆に律法を守る生活を教える律法学者たちと向き合っています。彼らの律法主義的教育は、律法から様々な規定を作り出し、それらを守ることを求め、監視するものでありました。それは、内的な神に対する信従なしにも成り立つ外面上の敬虔であります。それゆえ、彼ら律法学者たちは、神に対する愛も、人々に対するあわれみのかかわりを持つこともなく、定められた規定を満たしていたら、律法を守る生活が出来ていると偽っていたのであります。
神の律法は、外面的な規定を守る信仰生活を求めているのではありませんでした。神の律法は、神の民が、一人一人、その全人格を傾けて神を愛し、また、その隣人を自分自身のように愛する生活を求めていたのです。神の律法は、神と出会い、隣人と出会い、神と隣人との愛の交わりの中で、共に生きる共同体的民を造り出し、生ける神の証言者として奉仕させるものでありました。しかし、律法のこの根本的な機能は、今や、律法学者たちにより、隠されてしまい、見えなくなっています。彼らの関心は、外面上の敬虔にのみ向けられており、神のあわれみの御心を行うことから遠く離れてしまっています。イエスは、この事実を律法学者たちに突き付け、まことの道への立ち帰りを求められているのであります。
しかし、自らを義なる者、徳高き者、知者であるとしていた彼らは、イエスに強く反発し、イエスに敵対する行動を起こしていくようになっていきました。そのような民の指導層の誤った指導や、妨害の中で、神の真理を語り告げるイエスの救い主としての御業が貫徹されていったのです。イエスに従い、イエスの道を行くその弟子たちもまた、イエスと同じ厳しい道を行くことになるでしょう。しかし、それは、神の祝福される道であり、罪と死に勝利していく道であります。
イエスは、神のみ前で神と共に、神に属する者としての真実の道を行く先頭に立っておられます。イエスに従う者は、神にある勝利を約束されつつ、真理の道を歩む者たちであります。
外面上の敬虔を求めるのではなく、内的に神に従う神への愛と信頼をこそ信仰生活の基礎として保持し、兄弟姉妹や隣人との、愛における交わりの生活を励み、神に喜ばれる歩みを進めましょう。
父・御子・御霊の神に栄光限りなくありますように。
聖 書 ルカによる福音書12章1~12節
説教題 「人を恐れないで、神を恐れる」
パリサイ人・律法学者たちとの対話の後、彼らの敵意が強まっていくのをご覧になって、イエスはその弟子たちに、権威、権力ある人々からの迫害に備える教えを与えられました。イエスの受ける迫害、妨害を、弟子たちもまた、受けるようになるからであります。
弟子たちは、安易な道に召されているのではなく、十字架の道(苦難)に召されています。その、十字架の道こそは、しかし、勝利への道でもあるのです。イエスは、弟子たちの先頭を行く方として、十字架の道における勝利を確立され、彼らにその勝利にあずかる約束を与えつつ、ご自分の後に従い、十字架の道を雄々しく歩むことを求められたのです。
彼らが、イエスの十字架の道を歩むにあたって覚えるべき大切なことがあります。それは、イエスの証言者として彼らを世にお遣わしになる神が、彼らとどのようにかかわって下さるかということであります。
イエスは、万物の創造者として、一羽の雀にさえ心にとめて下さる神の愛に目を向けさせます。当時、市場では5羽の雀が1アサリオン(5円)で売られていました。雀の命はそのように人々から値低いものとして扱われています。しかし、その雀の一羽でさえ、神が覚えて下さるのです。ましてや、弟子たち一人一人の命は、神のみ前でどれほど値高くみられているかを考えなければなりません。弟子たちの髪の毛一本さえも、神は数えておられます。彼らから失われるものは何もないように、神は弟子たちのことを守っておられます。
弟子たちは、この神の愛の中で、イエスの証言者としての戦いをしていくのです。神が、彼らの生き死にの最終的決定者なのです。神は常に彼らを覚え、彼らと共にいまし、彼らにイエスの救いの証言者としての力を与え、導き、その救いの命を守っておられます。
人間の権力者・権威者たちは、その神の守りの中では、たとえ弟子たちの肉体的な命を奪ったとしても、彼ら、弟子たちの神にある命を滅ぼすことは決してできません。神が味方であるなら、誰が敵し得ましょうか。イエスの後に従い、イエスと共に神の国の道を行く者は、神の愛の中で、順境の日も、苦難の日も、いかなる時にも神に覚えられ、その愛において守られていることを心にとめつつ、雄々しく歩むべきでありましょう。全能なる神に、賛美と栄光が帰されますように。
聖 書 ルカによる福音書12章13~21節
説教題 「人の命は、持ち物にはよらない」
ある人が、イエスに遺産の分配に対する調停をお願いしたことで、持ち物の多さと命の関係についての教えがなされました。貪欲に多くのものを持とうとすることには、それによって自らの命が安全に保障されるとの考えがあります。さらにまた、自らの生存にのみ執着する思いがあります。果たしてそれは正しい考えなのか。イエスは一つの例え話を話されました。
ある金持ちの畑が豊作になりました。その時、金持ちは、将来にわたって自分の命が長く保証されるようにと、取り入れたすべての物を、長年にわたって蓄えることのできるよう蔵を立てなおす計画を立てました。そして、自分に言い聞かせるのです。「たましいよ、お前には長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ、安心せよ、食え、飲め、楽しめ」。
さて、しかし、そのような金持ちの様子をご覧になっていた神は、金持ちにこう告げました。「愚かな者よ、あなたの魂は、今夜のうちに取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は,誰のものなるのか」と。
金持ちは、彼のいのちが、いのちの主である神からきて神に帰っていくものであることを知らないか、あるいは無視しています。神を認めず、神を知らないでいることが、「愚かな者」と言われているのです。
人が持つすべての物は、神の賜物であります。したがって、そこには、賜物についての神に対する責任があります。神は、多く持つ者が、持たない者に分け与えることをお望みなのです。しかし、その責任を果たさないとき、その賜物は、彼から取り上げられるのです。
神を知り、その御心に従うことは、神のみもとに宝を積むことであり、自分の命を神のもとで持つ者となることであります。神は、御心に従って生きる者の命を彼の命として守られます。
すべてのもののいのちは、神の御支配のもとにあります。神から生き、神に帰っていくいのちをわたしたちは生かされています。そして、それはまた、隣人と共に助け合い、支え合って生きる命として与えられている命であります。わたしたちの生には、常に神と隣人のことが
考慮されていなければならないのです。造り主である神は、わたしたちを隣人と共に、生へと、生きることへと送り出して下ったのです。
愛とあわれみに富む神に、栄光とこしえにありますように。
聖 書 ルカによる福音書12章22~34節
説教題 「思い煩いから自由になる」
イエスは、貪欲に、自らの将来のため食物をため込み、安心しようとした金持ちのたとえ話をされ、人の命は食物にはよらないこと、神から命を与えられ、神の養いとしてこそ食物が人の役に立つのだということを示されました。命が取り去られるならば、人がため込んだ食物は彼の手を離れるのです。食物は、人の命を保証するものではありません。命は、命の主である神に属するものであり、神から受け、神へと帰っていきます。日々、命を神から受け、神に感謝し、神の養いに信頼して神に向かって生きることこそが、命を与えられた者にふさわしい在り方なのであります。それは、富む者も、富まない者も同じであります。
イエスは、このような神のみ前でのふさわしい生き方を実現させるため、33節では、「自分の持物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい」とお命じなっています。持ち物に依存するのではなく、神の与える御心に信頼し、乏しい人々に分け与えることが奨められます。
イエスの弟子たちは、少数者であり、また、貧しい者たちでもあります。彼らの現実は、今日、何を食べようか、何を着ようかと心配せずにはおれない状況を抱えているのです。その彼らに対して、イエスは、神がその御国を彼らに与える御心であることを告げ、それに添えて、彼らの日々の必要をも与えて下さることへと信頼の心を向けさせます。
神の国へと弟子たちを招き、神の国の奉仕へと弟子たちを召して下さる神は、彼らと共にいて下さり、彼らの日々の必要を与えて下さり、御国(神の国)の御業を進められるのです。彼らは思い煩うことなくすべての必要を神により頼み、神から受け、神に信頼して歩むべきであります。
主の祈りもこのような神信頼における祈りを祈りとして与えています。 栄光限りなく神にありますように。