すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
聖 書 詩篇23篇
説教題 「主はわが牧者」
詩篇23篇は、神と神に信頼してその人生を歩む信仰者の信仰の告白と、神と共に生きることへの幸いをうたっています。表題には、「ダビデの歌」とつけられており、様々な苦難をくぐりながら、神に信頼して、その守りと許しにより頼み、悔い改めつつ神に従ったイスラエルの統一王朝の祖、ダビデ王の歌としてふさわしいものであります。
ここでは、神は羊飼いに、信仰者は羊にたとえられ、神と信仰者の関係がうたわれています。
羊飼いは、羊の先頭に立って、羊の群れを導き、緑の牧場や水のほとりに連れて行き、その命を養い守ります。また羊に獣が襲いかかった時には、手に持っている杖で獣を追い払います。暗い谷間の道には、羊を狙って獣が潜んでいることが多いということであります。羊にとっては、どんなときにも羊飼いが頼りであります。羊飼いに導かれ、羊飼いに信頼して、その後について行くことこそが、羊にとってその命を守り、安全で幸いを得る道です。
さて、信仰者もまたその先頭に立っておられる導き手、霊的命を養い守って下さる神に対して、絶対的な信頼を寄せ、従っていくことが安全と幸いをもたらすのであります。順境でも、逆境でも神が共におられ、信仰者としての正しい道を神は示してくださいます。危機の中で忍耐して神を待ち望み、神に従い、神により頼んでいくとき、神はあふれる恵みを備え下さるのです。
ここには、そういう信仰者の生きた神体験が告白され、その生涯を神の臨在のもとで生きようとする喜びに満ちた希望の確信がうたわれています。
私たちの一足一足、一日一日が、神が共におられる一足一足であり、一日一日であります。この年の初めに神がおられ、終わりに神がおられます。私たちに与えられるすべての時は、神が共にいて下さる時であり、導き守り、恵みを備えて下さる時であることを覚えつつ、この一年を、神の御心に仕える神のしもべ(奉仕者)として、また、神から神の子としての栄光を与えられている者たちとしての一年として、力強く歩んでまいりましょう。
栄光とこしえに神にありますように。
聖 書 ルカによる福音書9章37~43節
説教題 「人々の悩みに向き合うイエス」
山上で栄光の輝きに包まれたイエスと、栄光のうちに天から現れたモーセとエリヤが、エルサレムにおけるイエスの最後について話しているのを、イエスと共にいた内輪の弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブが目撃しました。彼らは、イエスが多くの苦しみを受け、最高法院の人々に捨てられ、殺されるであろうことを、山に登る前にイエスによって予告されていましたが、そのことを理解することができませんでした。山上で、イエスが天の栄光の姿に変えられた時、その栄光の中にイエスとモーセ、エリヤがずっととどまることを期待したのです。
しかし、その期待を彼らが口にしたとき、雲が沸き起こって彼らを覆い、雲の中から神のみ言葉が臨みました。
「これはわたしの愛する子、私の選んだ者である。これに聞け」。雲が晴れたとき、そこにはイエスお一人だけがおられました。弟子たちは、自分たちの思いにではなく、イエスに従い、イエスを通して神のみ旨に従うことを示されたのです。
イエスが包まれた天の栄光は、イエスの苦難の死の先に待っている栄光の予示でありました。したがって、栄光の中に移される前に、イエスは、苦難の死を死ななければならなかったのであります。その神のみ旨を受け入れ、その時に向かってイエスは心を向け、弟子たちに苦難の予告をし、備えの警告をされながら、歩まれていました。
イエスが山から降りて来られると、弟子たちをはじめとする人々の不信仰の姿がありました。一人の少年が悪しき霊により病を得、苦しめられていましたが、その癒しを求められた弟子たちが、少年から悪しき霊を追放することが出来ず、人々を失望させていました。少年の父親は、イエスを見るとすぐに大声で、イエスにそのことを訴えたのです。すると、イエスは、そこにいたすべての人に向かい、「なんと不信仰な曲がった時代であろう」と、お叱りになりました。子供の病が癒されなかったのは、そこにいたすべての人の不信仰によるとされたのです。神から遣わされたイエスを受け入れず、信頼してより頼み、従わない人々の姿が見えていたのです。イエスは、病の少年を呼び寄せ、その子から直ちに悪しき霊を追放し、父親に返しました。忍耐強く人々の不信仰と闘い、すべての人のための救いを成し遂げようと前進するイエスのお姿があります。神にあるイエスの愛は深いかな。
聖 書 ルカによる福音書9章46~48節
説教題 「一番小さい者こそ一番大きい」
イエスの弟子たちの間で、「誰が一番偉いか」という議論が始まったという流れで、イエスの教えが語られています。その議論は、イエスご自身の受難予告のすぐ後に続けて語られていますので、明らかにその事と関連していると理解できます。イエスの弟子として、イエスの後に従い、イエスを通して実現されようとしている神の救いの御業に奉仕する者たちは、イエスの歩みに自らの歩みを合わせるべき者たちであります。それゆえ、彼らはまず、イエスの歩まれる道の最後に至るまで、イエスの後に従い、イエスを受け入れる者たちでなければならないのです。そうしてこそ、彼らにふさわしい身分が確定するのです。ここには、その弟子たちの身分を決定するイエスのお言葉があります。
「あなたがたみんなの中で、一番小さい者こそ、大きいのである」。
イエスのお言葉は、弟子たちにとって理解できないものであったでしょう。彼らはこの時、まだ、ローマ帝国の支配から解放された独立国家としての、イスラエルの栄光を追い求めていました。彼らは、その栄光ある国家で王なるイエスの側近として、高い地位を求めて、互いに競い合っていたといえます。
しかし、イエスは確かにイスラエルの真の王なる方であり、王としての支配を確立されますが、この世的王国なのではありません。イエスが来たらせ、確立されるのは、永遠の神の王国であります。そして、その王国で偉大なるものは、この世的権力をもって支配する者たちではなく、自らを与えて他の人に仕える者たちであります。この世的に言えば、最も小さい者、最も低い者であります。神の国の王としてのイエスの偉大さが、何より、その低さにありました。イエスは、苦難の死であり、呪いの死である十字架の死という奉仕によって、最も低い者となられ、神に対してすべての人の罪を負い、すべての人をその罪と死の力から救い出し、その救いを受け入れた者たちを自分の民として治める永遠の御国の王なのであります。
イエスの名の下で人が偉大な者になることを望むなら、その人は、イエスの御跡に従い、仕えるものとしての低さをこそ追い求めければならないのです。そして、その歩みの先にあるの
が、栄光の主イエスと同じ形へと入れられる約束であります。苦難から栄光へと、イエスの弟子たち、イエスの民の道が示されています。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神にあれかし。
聖 書 ルカによる福音書9章49~56節
説教題 「イエスの寛容に従う」
弟子たちの態度がイエスによって否定され、御心にかなった在り様を示される二つの出来事が語られています。これは、イエスの教会において、問題の解決のふさわしい道を示している出来事と言えるでしょう。
一つ目は、弟子たちの仲間として一緒に行動していない人が、イエスの名により悪霊を追放していて、それを見たヨハネがやめさせ、当然の正しい行為をしたと、誇らしくイエスに報告していることです。なぜ、ヨハネはそうしたのか。それは、自分たちの側にイエスの権威が占有されるべきとの考えからでしょう。9章の1~6節に、イエスが12人の弟子たちに「悪霊を制し、病気を癒す力と権威とをお授けになった」ことが語られ、12弟子はその力と権威に基づいて活動し、その結果をイエスに報告しています。12弟子以外の者は、イエスの名を用いて悪霊を追放する権威を持たないと考えている根拠は、ここにあるのでしょう。
ここで問題なのは、ヨハネが、イエスに問うことなしに、自分の判断をイエスの御心にかなうものとして行動し、後でイエスに報告をしていることです。ここに、大きな問題が隠されているといえます。人間の思いや、考えは、必ずしもイエス(神)のみ心にかなっているものではないのです。イエスの名のために、その弟子たちが行動するときには、やはり、イエスの御心をまず問い、イエスのお答えをいただいてから、御心に沿って行動するべきでありましょう。 ヨハネの独断での行為をイエスは否定されました。イエスの名を用いて悪霊を追放している人は、イエスとその弟子たちに反対をする者ではなく、むしろ味方をする者だから、その働きをやめさせなくてもよいと諭しています。
二つ目の出来事は、与えられている力や、立場における間違ったふるまいであります。エルサレムに向かう近道として、イエスの一行がサマリヤ人の村を通ろうとした時、彼らがエルサレムへ向かっていることを聞くと、サマリヤ人が妨害してきました。歴史的な事情があって、サマリヤ人はエルサレムと対抗しており、お互いを否定しあっていたのです。ヤコブとヨハネは、イエスに「天から火を呼んで、彼らを焼き払いましょう」と、過激なことを訴えています。彼らはイエスの持っておられる力を、怒りに任せて報復するために用いようとしているのです。しかし、イエスはそれをお叱りになりました。イエスがそのみ力と権威を、人々の救いのためにこそお用いになられます。使命のための苦難を、ご自分のものとして引き受けるイエスのヘリ下りが示されています。そのヘリ下りは、弟子たちのものともなるべきものです。弟子たちもまた、喜んで苦難を引き受け、その使命に生きるべきなのです。
栄光とこしえに父・御子・御霊の神に。